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乱声・五拍──恋の重荷(陸)

 その数日後、敏平は初めて粟田口尼に会った。


 この尼は登花殿の女御(棟子)のもとに出入りしている。中宮と女御の仲は良好であった。敏平が中宮のもとに参ると、中宮は先日の帝の話を思い出し、敏平と粟田口尼とを引き合わせようと、登花殿に尼を呼びにやったのである。女御はすぐに尼を中宮の御前に遣った。


 やがて現れた尼は、まるで大輪の花の蕾が今にも開きそうな、そんな様を思わせる人であった。実に艶やかである。その美しさに、敏平はとても驚いた。


 美しい尼は中宮の御前に座り、琵琶の撥面をそちらに向けると、御意に従い『上原石上流泉』の秘曲を弾き奉った。


 これがまた、頗る速く弾くのだ。こんな速い琵琶の演奏は聴いたことがないので、また驚いた。だが、不思議とそれがよい。何故か心惹かれる。


 魅力的な演奏。


 これだと敏平は思った。いや、叫んでいた。


「弟子に、弟子にして下さい!」


 御前も憚らずに入門を乞うていた。


 中宮はくっと失笑した。御前も忘れて、初対面の尼に弟子入りを願うなど、いかにも楽狂いらしいではないか。


 中宮は、


「尼君よ。この敏平は琴の名手。大層耳は肥えている。こなたの琵琶に心底感動したのでなければ、入門など乞うまい。許してやってはくれまいか、この者を弟子にすることを。こなたにとっても勉強になる、素晴らしき弟子だと思うが」


と、口添えしてくれた。


 中宮の御言葉もあり、粟田口尼もにっこりと、


「畏まりました」


と、即座に返事した。


 暫くやめていた琵琶だったが、この尼の演奏を聴いた途端、敏平は急に弾きたくなった。


 そういえば、実父も琴と琵琶の名手だった。やはり、血なるかなと思ったのでもある。父と同じように生きてみるのも、悪くない。いや、実父だという人の歩んだ道を追うことで、己の血を実感し、思い知ることができるような気がした。父を知ることができる。


 父を知りたい。血を知りたい。ようやくそんな気持ちになってきたのであった。





 深草より六条西洞院に移った姫君は、裳儀を済ませ、ようやく成人女性となった。


 かの清花の姫君の乳母であった才外記が、この姫君の乳母にも定められたのだったが、この人がつい先日亡くなった。姫君はとても心細く思った。


 才外記は嵯峨の音仏の母であるから、音仏は喪に服すこととなった。故人の姪の小外記も、暫くは姫君のもとを退出しなければならない。


 小外記は衛門の異母妹で、二人は双子のようにそっくりであり、とても仲が良く、二人揃っているのが当然のようであった。だから、片方が欠けてしまうと、ひどく物足りない。昔は女童として共に清花の姫君に仕え、衛門は佐保姫、小外記は竜田姫と呼ばれて、皆から可愛がられたものだった。


 深草の姫君は乳母に死なれ、小外記も不在なので、ひどく寂しい。常に讃岐を傍らに置いて、一刻も離そうとしない。


 東の御方の琴の稽古にも、余り身が入らない様子だった。


 この姫君。やはり清花の姫君ではない。


 悪くはないと思うが、英才ではなさそうだ。どんなに頑張っても、琴の灌頂は無理だろう。


 東の御方も敏平もそう思う。


 それでも、自分を大事にしてくれる養父母や女房達のために、必死に頑張ろうとする姿が、なかなかに健気だった。


 正直、敏平はその凡才に失望しかかったこともあったが、それでも放っておけない何かが、この姫君にはある。


 姫君の方は、敏平をたまにやって来て、口やかましく指導する鬼なぞと思っているかもしれない。だが、敏平がつい指導に熱を入れてしまうのは、やはり、清花の姫君の亡くなった瞬間に誕生した人だという拘りがあるからだ。


 さて、讃岐は困ったものだと思った。


 姫君は沈みがちで、琴の稽古にも身が入らない。


「気分転換に、稽古ではなく、聴かせてあげてはどうでしょう?」


 敏平は讃岐にそう言った。


 そういえば、姫君には稽古をつけることはあっても、敏平の演奏を聴かせたことはなかった。


「それはよいかもしれませぬ」


 深草より同行してきた丹波も賛同した。


 姫君も聴いてみてもよいと言うので、さっそく敏平は西の対に向かった。


 御簾越しである。


 姫君の姿を見たのは、深草に迎えに行った時、姫君が輿に乗ろうとしたあの一瞬だけだ。成人して、今ではすっかり綺麗な女人となっているだろう。敏平の中では、清花の姫君の姿に重なる。


 御簾外より『胡笳明君別四弄』を弾く。王昭君の悲哀。だが、開元年間に雷氏によって製作された無銘の琴の音には、幽かに妖艶が住み着いていた。


 姫君は初めて琴に心惹かれた。敏平を凄い人だと思った。


 翌日、敏平の弟子の民部卿局は、稽古の日でもないのに敏平を訪ねてきた。それも、いつも稽古している嵯峨ではなく、わざわざ六条西洞院第にである。


 何事かと思えば、驚愕の一言を述べる。


「昨年か一昨年頃か、はっきりとはわかりませねど、浄玖が亡くなっていたらしゅうございます」


 浄玖と聞いて、それが暫し誰であったか思い得なかった程。思いもかけぬ名であった。


「浄玖?」


「ええ、浄玖です」


「浄玖、浄玖……。じ、浄玖っ!?」


 思わず御簾を引き剥がしていた。


 民部卿局、びっくりして上半身を袖の中に埋める。


 敏平、民部卿局に飛びつかんばかりの勢いで、


散位(さんに)政任!?」


と、縦目阿闍梨よろしく目を目一杯見開いた。


「政任朝臣が……。つい最近まで生きていたのですか。そんな一年や二年前まで……生きていたのですか……」


「はい……そうらしゅうございます」


「随分昔の人が生きていたものですね」


 大昔の人が、ごく最近まで生きていたとは。清花の姫君はもうとうの昔に亡くなっているというのに。


「師の君。以前行われた准后の姫君の法要のように、立派なものを営んで差し上げるべきではございますまいか。琴三聖の政任朝臣ですし。七賢は皆、政任朝臣の門徒でいらせられたのですから、政任朝臣は別格です」


 民部卿局に言われて、清花の姫君はとっくに亡くなったのにという思いから、彼は我に返った。


「あ、ああ。そうですね。盛大に供養致しましょう」


 すなわち敏平は、政任朝臣の回向を行ったのであった。


 伝説の琴士・政任。享年九十七歳であったという。


 一つの時代が終わった。


 巨星落つの報は、たちまち都じゅうを驚愕の渦に巻き込んだのであった。


 政任の回向の日、一人の尼がそこに参って、琵琶を一曲弾かせて欲しいと言った。大輪の花のように艶やかなその尼は、件の粟田口尼である。


 一代の大芸術家の死を偲び、どうしても琵琶の奉納演奏をしたいという。敏平はその師の申し出を許した。


 尼がおもむろに何か弾き始める。聴いたことのない曲だ。回向に弾くにしては、ひどく鮮やかな。派手というのとも違うが、艶やかというか。何とも若々しく華やいだ曲であった。


 この尼、いったい何を考えているのだろうかと、敏平は師の心中を訝った。

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