は
「ご主人様はどこかへお仕え事等はしてないんですか?」
パソコンへと向かう貴行にちゃぶ台を拭きながら話しかける。
「お仕え事……? 仕事の事?」
貴行は鈴が淹れた茶を啜る。
「はい」
手を止め貴行の顔を直視する。
止めた体の動きの最後の一滴ように、耳に掛けた黒く綺麗な髪が零れる。
「仕事はしてないんだよね、何もしてないの」
鈴は不思議そうな顔をする。
「どこにもお仕えしてないんですか?」
働いていない事を咎められているような気分になった貴行は口が重くなってしまう。
「うん、まぁ……」
「あ、すいません、お仕えしていない事を責めたい訳じゃないんです」
すぐに貴行の胸中を察して慌てながら言葉を足す。
貴行の顔色を窺いながら尾を下げ耳を垂らし、頬を染める。
「そ、それならずっと一緒に居られますね」
貴行はその様子を見て照れてしまった。
「な、何言ってるの……」
ずっと一緒に居られる、鈴はそんな事を頬を染めながら言う。
「えへへ……」
鈴自身もなぜ自分の顔が火照っているのか分からなかった。
貴行とずっと一緒に居れば、法力の供給を絶え間なく受ける事ができて安心だと言う、ただそれだけの意味でこの発言をしただけだ。
それなのに鈴の頬は赤くなってしまっていた。
互いに照れて目を逸らし沈黙が訪れる。
その沈黙を破りチャイムの音が響いた。
「だ、誰だろ?」
「あ、私が出ますよ」
その言葉を聞かず、貴行はすぐに立ち上がり部屋との仕切りが無い玄関へと向かった。
覗き穴からドア越しに誰が来たのかを確認する。
「きょ、京子だ……」
京子は貴行の実の妹。
「京子? っていうのはどちら様なんですか?」
「お、俺の妹だよ、ま、まずい」
呟くように言う貴行の顔の毛穴からは不快な脂が噴出す。
「ちょっと開けなさい!! 私よ!! 京子よ!! 京子!」
ドアを激しく叩き、中へ入れろと要求する。
しかしこの状況は貴行にとっては非常に不味い。
「なんですか?」
鈴の顔と、向こう側に妹が居るドアを交互に見る。
働いていない自分が女と同居をしている等と言う事が京子に知れたらどうなるか、貴行は恐れ慄き、身の毛が逆立つ。
居留守は使えない、玄関のすぐ横にある台所の窓ガラスは不透明で家の中が丸見えになるという事はなかったが、人が動いて居るという事は簡単に分かってしまう。
それを京子が確認していないはずがなかった。
「何で居るのに開けてくれないの!? 何か見られたらまずい物でもあるの!?」
ドアを叩きながら捲くし立てる。
限界を感じた貴行は鈴に小声で話しかける。
「鈴、京子が居る間、押入れに隠れててくれない?」
「わ、分かりました」
鈴にも事の重大さは伝わっていた。
それに加え、鈴にも人との接触はできる限り避けなればならない理由があった。
自分の事を言い触らすような人間に見つかってしまえば安穏な生活は送れなくなってしまう。
鈴は静かな暮らしを望んでいた。
鈴は人ではない。神霊の類の者。
尾が生え、人の物ではない耳まであり、法力によって存在を保っている。
人とは違う特殊な自分の存在が周囲に知られてしまっては穏やかな暮らしなど到底望めない事はおろか、命の恩人である貴行にも恩返しをできないまま離れ離れになってしまうかもしれない。
今貴行のそばを離れる訳には行かなかった。せめて恩を返すまでは一緒に居たい、鈴はそう思っていた。
鈴は押入れへと入る。
「大丈夫です」
襖を閉め、京子を入れても大丈夫だと知らせる。
「わかった」
貴行は鈴に一言声を掛けて鍵を開けた。
ドアが開き京子が顔を覗かせる。
黒く長い髪を揺らしながら部屋の中の様子を観察する。
一通り見終えると貴行の顔を見た。
「とっとと開けなさいよ、この殻潰し」
乱暴に靴を脱ぎ、ちゃぶ台の前に置いてある座布団へと陣取る。
「お茶」
貴行を横目で睨み付けながら一言。
しかし無職であるという立場上、貴行は大人しく京子に従うしかない。
このアパートの家賃も自分で払っている訳ではなく、父に払って貰っているのだった。
「どうぞ」
「ん」
出されたお茶をすぐに取り、少し飲む。
「まだ熱い物だめなの?」
京子の昔からの猫舌を指摘する。
「うっさい!」
透かさず貴行の太ももへと蹴りを入れる。
「いてっ」
お茶を置き、腕を組んでそっぽを向いた。
「そ、それで、今日はどんなご用件なんでしょうか」
「べ、別に用なんて無い」
貴行の方を向いて耳を赤くする。
「何!? 用がなきゃ来ちゃいけないの!?」
「い、いや、そんな事はないんだけど」
「そういえばさっきからなんかこの部屋、良い匂いがするんだけどおかしくない?」
「え、いや、気のせいじゃない、かな……」
脇から汗が噴出し染みを作る。
「部屋が片付いてるのは自分でやったとしても、貴行って部屋の匂いまで気にしたりしないわよね?」
「た、たまたま! たまたま! 消臭剤がサービスでもらえてさ!」
「……なーんか怪しいのよ、そういうんじゃない気がする」
立ち上がって歩き、押入れの前で止まった。
「なにもない! なにも無い!!」
貴行の様子を見返る形でいた京子は冷やかに押入れへと向き直り、一気に襖を開いた。
京子と鈴の視線が交わる。
「誰?」
最初に声を出したのは京子だった。
鈴は京子から目を離し、貴行の方を見る。
貴行は何も言えず鈴の顔を見つめ返した。
京子がゆっくりと振り返り、貴行へと体を向けて歩み寄る。
「ねぇ、誰?」
先程の問いを貴行に向かって繰り返す。
「この女、誰?」
貴行の肩に手を乗せ、優しい微笑みを作る。
「い、いやぁ……えっと……」
次の瞬間には京子の平手打ちが貴行の頬へと炸裂していた。
京子のか細く小さな体から繰り出されたとは思えない衝撃が貴行を貫いて床に崩し落とす。
その様子を見た鈴はすぐに貴行へと駆け寄って、その頭を抱いた。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
貴行の横顔に鈴の大きな胸が触れる。
「ご、ご主人様……? 何、それ……」
京子は貴行と鈴の親しげな触れ合いと大きな胸に苛立ちを募らせる。
「ちょ、ちょっとアンタ達! 離れなさい!!」
貴行の頭を手で押し、鈴の肩を反対の方向へと引き離した。
結果として貴行は畳に頭を打つ。
「ど、どういう事? ご主人様って何? 説明して」
京子は貴行と鈴の関係をはっきりさせようとする。
「お、俺、そいつと一緒に暮す事にした」
貴行は隠し通す事はできないと判断して事実を打ち明ける。
「は、はぁ? いつから?」
京子は納得できないという様子を見せながら、いつから同居しているのかと問う。
「……一週間ぐらい前から」
この一週間の間に貴行の部屋は見違えるほど綺麗になっていた。
本はきちんと本棚へと整列され、流しに溜まっていたカップ麺の器や食器、コップなどは綺麗に洗われて水切り籠に重ねられている。
散乱していた衣服は綺麗に洗濯されてから箪笥へとしまわれ、溜まっていたゴミ袋も全て出されていた。
床に溜まっていた虫の死骸や埃も今では面影が無い。
トイレの垢も綺麗に落とされ、貴行が買ったが使っていなかったトイレ用のマットも敷かれている。
全て鈴がやった事。
家に来た最初の日は片付けとして床に落ちている本を拾い、本棚へと並べた。
次の日は洗濯機の動かし方を教わりながら洗濯をして、床の拭き掃除をし、ゴミの出し方も聞いた。
そして次の日にゴミを出し、トイレをブラシで入念に擦って磨き上げ、押入れで見つけて洗濯しておいたトイレ用マットを敷いた。
4日目には貴行の承諾を得てパソコンが載っている机周りの埃を拭い、布団も干した。
5日目にはちゃぶ台と貴行の机を布巾で磨き上げる。
6日目には部屋の掃除のほとんどが終わり、貴行に勧められたテレビを見ながら過ごした。
そして7日目の今日、貴行がずっと家に居るという事に気付いた鈴はその事を質問しながら、また貴行によって汚れたちゃぶ台を拭いていた。
「い、一週間、ね……」
京子の顔が強張る。
「……別に良いでしょ、誰かと同居したって」
貴行の一言が京子の逆鱗に触れた。
「良い訳ないでしょ!? し、仕事もせず!! こ、こんな、こんな女と……」
初め鈴の顔を指した指は震えて振れ、下へとずれて大きな胸を指す。
「お、お母さんに言うから! 絶対! 言うから!!」
「そ、それだけは勘弁して!!」
「いや、絶対に嫌! 言って家に連れ戻してやる!!」
京子は貴行の事が好きだった。
一人の女が一人に男に想いを寄せる、恋心。そんな感情を兄である貴行に対して抱いていた。
そしてそれは貴行が一人暮らしをしたいという我侭を通した時に、京子の胸へと小さくはない空白を開けた。
今まで当たり前にあった貴行との時間は失われて、どうしようもない虚無感が京子の胸へと訪れる。
京子は切ない想いから、貴行が暮らしているアパートへと頻繁に遊びに来ていた。
一緒に暮らせないという寂しさを埋める事はできないまでも、二人きりの時間が作れるという事を京子は少しだけ嬉しく思っていた。
しかし今回貴行の部屋へと来て見ると様子がおかしい。
押入れに見知らぬ若い女が居た。
貴行に対して激しい怒りを覚え、鈴に対して冷やかな感情を持つ事は当然だった。
「頼む! 今回だけは! 本当に!」
貴行は床へと頭を擦りつけるようにして平伏した。
「な、なんでよ、こんな女」
横目で鈴を見遣ってから平伏す貴行を方を見る。
「一言じゃ説明できない! 京子が落ち着いて聞いてくれれば全部話す、全部」
貴行は顔をあげない。
その真剣さに京子は話を聞こうという態度を見せた。
「わかった、じゃあ、説明してよ」
座布団へと正座し、貴行にも座布団を渡す。
「ありがとう」
頭を起こしながら座布団に座った貴行の額には畳の跡が赤く残っていた。




