ろ
「荷物とかないの?」
「はい、身一つです」
少女は貴行の住んでいるアパートの一室へと来た。
掃除の行き届いていない部屋の中を珍しそうに見回している。
貴行は自分の部屋で改めて考えて事の重大さを実感した。
とても品が良く可愛らしい少女とアパートの部屋で同居をする。
山で少女に一緒に暮らす事を提案した時よりも事態が現実味を帯びて貴行の心を掻き乱す。
しかし不安ばかりがあった訳でもなく、これからこの可愛らしく清浄な少女と一緒に暮らして行けるという期待も少しあった。
貴行は改めて少女を見つめる。
深い茶色の袴を穿き、上に着ている白い着物は、その服の下にある大きな胸により張り出している。
足袋を履き、見事な所作で袴の裾や着物の袖を裁いている。
袴の臀部の少し上には縦に小さく穴が開いて、そこから黒い毛の生えた尻尾が出されている。
頭に付いて髪に紛れた黒い耳も忙しく動き、貴行の部屋に興味深々といった様子だ。
「あのさ」
話しかけるとすぐに視線を貴行へと向けた。
「はい?」
「あの、名前とかってあるの?」
「名前ですか?」
聞き返されて照れてしまう。
普段若い女との接点が無い貴行は、ただせさえ女が苦手だった。
それに加えてこの少女はとても美しい。
何て事はないようなやり取りでも頬を染めてしまった。
「あ、そ、そう、なんて呼べば良いかなって思って」
少女には鈴代という名前があった。
社の鈴を鳴らすと御遣いである少女が応対していた事から、鈴を鳴らすと現れる者。鈴を受ける者、鈴の器、鈴の依り代。となり、鈴代という名前が与えられた。
しかし神の御遣いという立場上、あくまで鈴代という名前は俗称のような物であり、普段は「御遣い」とそのままで呼ばれていた。
少女の名前にはそのような込み入った事情があり、名前を聞かれても返す事に少しの時間が掛かった。
「鈴代、と呼ばれてました」
「すずしろ?」
「はい」
少女は微笑む。
「じゃあ、鈴で良い?」
突然に言われた事に少女は呆けた顔をする。
「鈴代の鈴をとって鈴、ダメ?」
少しの間を置いてから少女は喜びの感情を表す。
「い、いえ、嬉しいです、ありがとうございます」
御遣いという役職名で呼ばれる事や、鈴代という鈴の依り代としての名前を与えられる事も嫌ではなかった。
しかし、鈴と呼ばれると、一個の存在として、自分自身に名前を付けて貰った様で少女はとても嬉しかったのだ。
「では、さっそくお掃除をしましょうか」
懐からタスキを出し、掛ける。
それは鈴の照れを隠す為の行動。
自分自身に名前を貰って嬉しい。
その事を考えると頬は紅潮し耳も赤みを帯びる。
「え? 今日はまだいいんじゃないの?」
「ダメです、こういう事は先延ばしにすると何時までも出来ないんですよ」
「た、確かにそうだけど幾らなんでも、さっそく過ぎるような気がするんだけど」
貴行の言葉を聞き、鈴は前のめりになっていた体を戻す。
「それもそうかも知れません、じゃあ今日は軽く片付けるだけにして置きましょうか」
平静を取り戻したような態度を取る鈴の頬は、まだ微かに赤みを残していた。




