第6話 借金
年が明け、いつものように仕事が始まった。
俺は何事もなかったかのように、平凡な日常を送っていた。
朝起きて仕事に行き、夜になれば家に帰る。
そんな当たり前の毎日だった。
しかし、若気の至りというやつだろうか。
遊びたい盛りの俺にとって、給料はいくらあっても足りなかった。
毎月の生活はギリギリで、決して余裕があるわけではなかった。
欲しい物があれば、金を借りてでも買う。
今思えば、ずいぶん無計画な生き方をしていたものだ。
時代はバブル。
街中の至る所に消費者金融の看板が立ち並び、テレビをつければ消費者金融のコマーシャルが当たり前のように流れていた。
金を借りるということが、妙に身近に感じられる時代だった。
少なくとも、当時の俺にはそう見えていた。
自分のせいなのか。
それとも周りのせいなのか。
今となっては分からない。
ただ一つ言えるのは、環境というものは怖いものだ。
知らず知らずのうちに、その環境に染まっていく。
そして恐ろしいことに、当時の俺はそれが特別おかしなことだとは思っていなかった。
前に話した土木関係の仕事をしている友人。
これからは、そいつのことを「K」と呼ぶことにする。
ある日、そのKが得意げな顔をして、一枚のカードを俺に見せてきた。
しかも、なぜか笑っている。
何がそんなに嬉しいのか。
そのカードは、紛れもなく消費者金融のカードだった。
聞けば、借入限度額は50万円。
50万円を借りても、利息は月に約1万円だという。
Kの言い分はこうだった。
「金なんて、ある時にまとめて返せばいいんだよ。それに、何をやるにも軍資金がいるだろ」
さらにKは続けた。
「考えてもみろよ。家を買うにしたって、車を買うにしたって、みんなローンを組むだろ。世の中、借金してる奴なんていくらでもいるんだよ」
そして、笑いながらこう言った。
「たかが50万くらい、大したことないよ」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
家も車も、現金で買う人間ばかりではない。
借金なんて誰でもしている。
そう考えると、50万円という金額が不思議と小さく思えてくる。
今思えば、住宅ローンと遊ぶための借金を同じように考えること自体、おかしな話なのだが。
当時の俺には、そんな違いを深く考える頭もなかった。
とりあえず、俺も金があれば安心できる。
そんな気持ちになっていた。
別に今すぐ何かを買いたいわけでもない。
ただ、手元に金があるというだけで、気持ちに余裕が生まれるような気がした。
金がないから我慢する。
金がないから諦める。
そんな生活から少しは解放されるのではないか。
もちろん、借りた金は自分の金ではない。
いつかは返さなければならない金だ。
そんなことは俺だって分かっていた。
だが、当時の俺にとって大切だったのは、将来の返済よりも、今の安心感だったのかもしれない。
借金をすることで、心にゆとりが生まれる。
今考えれば、何とも矛盾した話である。
そして俺は、迷うことなく消費者金融の窓口へと向かった。
不思議なもので、借金をするというのに、それほど抵抗はなかった。
むしろ、これで少しは金に余裕ができる。
そんな期待の方が大きかったように思う。
細かいことは、もうあまり覚えていない。
何しろ、ずいぶん昔の話だ。
ただ、初めての消費者金融だったこともあってか、借入限度額はすんなり50万円になったような記憶がある。
当時の俺にとって、50万円は決して小さな金額ではなかった。
それだけの金を、こんなにも簡単に借りられるのか。
驚きもあったが、それ以上に、妙な安心感を覚えた。
もちろん、50万円を稼いだわけではない。
ただ借りられるようになっただけだ。
それなのに、まるで自分の貯金が50万円増えたかのような気分になっていた。
借金なのに、金持ちになった気がする。
今思えば、これが大きな勘違いの始まりだったのかもしれない。
これはもう、性格的なものだったのかもしれない。
当時の俺は、金があればあるだけ使ってしまう人間だった。
財布に金が入っていれば使う。
なければ我慢するが、あれば我慢する理由がない。
そんな生き方をしていた。
借りた50万円も、おそらくパチンコや飲み食いに消えていったのだと思う。
何にいくら使ったのか、今となってはほとんど覚えていない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
わずか2か月ほどで、50万円を使い切ってしまったのだ。
何か大きな買い物をしたわけでもない。
手元に残るものがあるわけでもない。
気がつけば金はなくなり、残ったのは50万円の借金だけだった。
あれほど気持ちに余裕を与えてくれたはずの金は、驚くほど簡単に消えてしまった。
当時の俺には、家賃と車のローンくらいしか大きな支払いがなかった。
だから、借金が50万円増えたところで、毎月の利息が約1万円増える程度なら、それほど生活が変わるとも思わなかった。
もちろん、元金の50万円はそのまま残っている。
だが、そんなことを深刻に考えることもなかった。
毎月1万円くらいなら、何とかなる。
金に余裕ができた時にまとめて返せばいい。
結局、俺もKと同じ考え方になっていた。
考えてみれば、わずか2か月で50万円を使い切った人間が、いつかまとめて50万円を返せると思っているのだから、ずいぶん都合のいい話である。
しかし、当時の俺には借金を背負ったという危機感がほとんどなかった。
それでも俺の日常は、何事もなかったかのように続いていった。
しかし、だからといって欲しい物がなくなるわけではない。
遊ぶ金だって必要だ。
一度覚えてしまった遊びを、そう簡単にやめられるものでもなかった。
給料が入れば、家賃や車のローンを払い、借金の利息も払う。
残った金で生活しなければならない。
だが、当時の俺には、遊びを我慢してまで借金を返そうという考えがなかった。
金が足りない。
それでも遊びたい。
そんなさなか、俺は驚くべきことを知る。
なんとKは、消費者金融のカードを3枚も持っていたのだ。
俺は50万円の借入枠があるカードを1枚持っただけで、ずいぶん金に余裕ができたような気になっていた。
ところがKは、そのカードを3枚も持っている。
普通なら、そんなに借金をして大丈夫なのかと心配するところなのかもしれない。
だが、当時の俺は違った。
驚きと同時に、妙な興味が湧いてきたのである。
そして俺は、何の迷いもなく、別の消費者金融へと足を運んだ。
目的はもちろん、2枚目のカードを作るためだ。
最初の50万円は、わずか2か月で使い切っている。
それでも、借金を減らそうという考えはなかった。
むしろ、また借りられる金が増えることに安心感すら覚えていた。
借金を返すためではなく、使う金を増やすために、さらに借金をする。
今思えば、何とも恐ろしい金銭感覚だった。
Kに至っては、俺以上に金遣いの荒い男だった。
パチンコに行く回数も俺より多く、遊びにも惜しみなく金を使っていた。
そんなKが消費者金融のカードを3枚も持っているのだから、今考えれば危なっかしい話である。
だが、不思議なもので、身近に自分以上に金を使う人間がいると、自分の金遣いがそれほど悪いものではないように思えてしまう。
俺も相当なものだったはずなのに、Kを見ていると、まだ自分は大丈夫だという気になっていた。
人間というのは、自分より悪い見本が近くにいると、妙な安心感を覚えるものなのかもしれない。
そしてこの頃、約3年間続いた同棲生活にも終わりが訪れた。
俺は、それまで一緒に暮らしていた女と別れることになった。
別れてからというもの、俺は何となく何をするにもやる気が起きなくなっていた。
仕事が嫌になったわけでもない。
何か特別な不満があったわけでもない。
ただ、心の中にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚だった。
今まで当たり前だった日常がなくなるというのは、思っていた以上に大きなことだったのかもしれない。
そんなさなか、Kが久しぶりにカジノへ行こうと言い出した。
「久々にカジノでも行って、ぱっとしようぜ」
相変わらずのKだった。
金遣いが荒く、遊ぶことには何のためらいもない。
俺も借金を抱えている身ではあったが、何となく気持ちが沈んでいたこともあり、Kの誘いは悪い話には聞こえなかった。
考えてみれば、初めてカジノに行った年末年始から、まだそれほど時間も経っていない。
あの時に味わったバカラの興奮。
カードを絞る時の、何とも言えない緊張感。
そんな記憶が、再び頭をよぎった。
それからというもの、俺は週に2回ほど、Kと街へ繰り出すようになった。
もちろん、目的はカジノだ。
仕事が終わればKと待ち合わせ、カジノへ向かう。
同棲していた女と別れ、何となく張り合いを失っていた俺にとって、カジノは格好の気晴らしになっていた。
バカラのテーブルに座れば、余計なことを考える暇もない。
勝つか負けるか。
ただ、それだけに夢中になれる時間だった。
しかし、当然ながら勝てるわけもなかった。
たまには勝つ日もあった。
だが、勝った金は次の勝負に消え、負ければ取り返そうとする。
結局、勝ったり負けたりを繰り返しながら、金は少しずつ減っていく。
それでも俺たちはカジノへ通い続けた。
負けた悔しさよりも、次こそは勝てるという期待の方が大きかったのだろう。
金を増やすためにカジノへ行っているはずが、気がつけば金を失うために通っているようなものだった。
そして、気がついた頃には、俺の財布には消費者金融のカードが5枚も入っていた。
Kに至っては、なんと6枚である。
俺の持っていたカードは、限度額50万円が4枚。
残りの1枚は、確か30万円くらいだったと思う。
合計230万円。
しかも、5枚すべて限度額いっぱいまで借りていた。
つまり、俺には約230万円の借金があったのだ。
最初は50万円くらい大したことはないと思っていた。
それが100万円になり、150万円になり、気がつけば230万円。
それでも俺は、まだ何とかなると思っていた。
本当に恐ろしいのは、借金が230万円になったことではない。
その金額を前にしても、俺にはほとんど危機感がなかったことだ。




