第80話 インキュバスの印
いよいよ明日が入学式だ。
とりあえず今日一日は中央軍事務局で勤務して、勤務日を稼いでおく。
毎週末、軍で事務作業なんて嫌だからな。
最近は東側の戦況は落ち着いてきているらしい。
結局、ノーフォーク基地など、大きな基地から一日以内の距離で前線を構築しなおし、安定的に維持できているようだ。
前線が安定すると、後方の事務作業も落ち着いてくる。
「リュカ曹長が来たときは、前線を下げるってんで大忙しでしたからね。実際、来てくれて助かりましたよ。総務課はずいぶん落ち着きましたし、会計課も忙しいのはあと一か月くらいですかね」
そのあと忙しくなるのは人事課とか。
俺は人事課には関わってないから関係ないな。
「休日出勤の忙しさは変わらないがな」
それは残念。
◇
勤務が終わってから、ジェニファーのところに行く。
「リュカ、そろそろ来てくれるかなと思ってたとこ」
結構、怪我人が溜まっているらしい。
まぁ、二週間空けたからな。
ヴァルクレインから戻ってきたら、すぐに来ればよかった。
「学院が始まったら、もっと頻繁に来られると思う」
スラムを回り、怪我人を治療していく。
二時間ほどかかった。
治療する時間より、移動と会話の時間がかかる。
軍の治療院みたいに流れ作業でできれば効率が良いんだがな。
◇
「いよいよ明日は入学式ね」
ジェニファーは少しワクワクしているようだ。
俺は正直、面倒だという感想だ。
庶民学校、士官学校に続き、貴族学校だ。
学校ばっかり。
前世でも十六歳までは小中高と学校ばっかりだったし、そんなものなのかもしれない。
しかし、ここからさらに何を学ぶんだろう?
「ジェニファーは準備大丈夫?」
ジェニファーが着ている服は、庶民の服といっても貧民寄りで、しかもいつも同じ服を着ている。
「おばあちゃんが新しい服を買ってくれたの」
笑顔で答えるジェニファー。
「昨日、中古服を買いに行ったら品切れでさ。今、取り寄せてもらってるけど、着くのは三日後なんだ」
「それは、買いに行くのが遅すぎよ」
それは全く、そのとおり。
教科書などは明日、学院での購入だ。
特に準備するものはない。
「じゃあ、明日学院で」
「うん、また明日」
◇
もうすぐ日が暮れる。お店で菓子を買って娼館に帰る。
ここら辺のお菓子屋さんは安いんだよな。ちょっと多めに買って帰ろう。
娼館は少しざわついていた。
「何かあったの?」
イエヴァに訊いてみた。
「ベネットにインキュバスの印が出たかもしれないんだ」
「インキュバスの印?」
「あぁ、陰部にしこりができることを、あたしらはそう言うんだ。もちろん、アタシらみたいな仕事をしてれば、しこりなんてできることはあるしね。気にしすぎだとは思うんだけど、チェリーにも出たっていうじゃないか」
前世のエロ漫画にあるような淫紋みたいなものか?
しこり、って言ってたな。
「リュカ、帰ってきたの? こっち来て」
ベネットに呼ばれた。
ベネットはひどく憔悴している。
「見て」
局部に赤いしこりが数か所できている。うむ、これは性病か。
「効かないかもしれないけど」
癒しの手を発動する。
しこりに変化はない。
「ありがと。少し収まった気がする」
弱々しい笑顔でベネットが言う。
「リュカは明日から王立学院よね。ときどき会いに来てね」
王立学院の生徒は、王都住み以外はたいてい寄宿舎に入る。俺もそのつもりだ。
でも、週末とかは会いにこよう。
「もちろんだよ」
◇
ベネットがいた部屋を出ると、イエヴァが待っていた。
「一月ほど前、貴族の客が来てただろ。たぶん、あいつにもらったんだと思う。ベネットもチェリーも普段は固定客が多いからね」
そういえば、固定客が多い雰囲気あったな。
「貴族はさ、性病にかかっても教会で治療してもらえるんだ。病気を治せるのは上級職の賢者様だけだ。賢者様は、私たちみたいなのは絶対に相手にしないからね」
賢者は上級職。
上級職は中級職二つで就ける職だ。戦闘系は闘者、非戦闘系は賢者となる。
賢者は希少だが、闘者ほどではない。
賢者になるのに戦う必要はあまりないため、時間をかければ到達するからだ。それこそ職によっては“祈り”だけでもレベルが上がる。
だから、賢者はもれなく老人だが、老化軽減で見た目はそこまで老けていない人もいる。
上級職になると、老化軽減20%が取れるんだそうだ。
老化軽減10%が二つと老化軽減20%で老化が四十パーセント遅くなる。
それと、自身に“治療”を施すことによって若さが保てるらしい。
「あのしこりは、そのうち消えると思うよ。でも、あれがインキュバスの印だった場合、しばらくすると体中に赤い斑点が出るんだ。それこそが、本当のインキュバスの印なのさ」
聞いた覚えがある症状。赤いバラが咲く。
いや、ここは異世界だぞ。
同じ病原菌が存在するはずがない。
「その斑点はいずれ消えるんだけどね。でも、インキュバスの印を押された女は数年で死んでいく」
梅毒。
ヨーロッパで五百万人を殺し、江戸での感染率は七割を超えたという性病。
末期には鼻が腐り落ち、顔から血がしたたり落ち、最終的には内臓まで侵され死に至る。前世の世界から過去に転移者でも来たのだろうか?
それとも、似ているだけの別の病?
◇
もし梅毒ならベネットとチェリーはあと数年で死ぬ。
俺が僧侶から魔法使いに転職するまで最速で三年。
さらに神官に転職するまでに三年。神官を三年やって、ようやく賢者だ。
しかも、人によっては転職に五年かかることもある。俺も巫女と祈祷師は五年かかったしな。司祭が三年で終わったのは軍で治療三昧だったからだろう。
賢者まで、頑張っても十年近く。場合によっては15年。絶対に間に合わない。
梅毒の特効薬はペニシリンだ。
アオカビから取れるのは有名だが、そこからどうやって精製するんだ?
なんか、前世のドラマで見たことがある気がするんだが、よく思い出せない。
アオカビの周囲の菌が死滅していたのが発見の経緯だから、分泌されるんだろう。
だから、アオカビを培養すれば、培養液にペニシリンが入っているはずだ。
菜種油を入れて分離させたり、活性炭に吸着させるところは覚えているんだが、水層に入るのか油層に入るのかを覚えてないし、活性炭に吸着させたあとの溶出方法もわからない。
梅毒の末期まで三年。
ペニシリンを開発するとして、ギリギリだな。
あと効きそうなのはヒ素毒、亜ヒ酸だ。
亜ヒ酸は江戸時代、水銀と並んで梅毒の治療に用いられてきた。この世界で銀貨を見たことがあるから、銀鉱山から出る副産物の亜ヒ酸はあるだろう。
水銀の使用は避けたいが、“毒耐性”や“毒無効”のスキルがあるこの世界なら、亜ヒ酸による梅毒治療も可能かもしれない。
毒と言えばクララさんだ。
毒耐性の取得方法や、毒耐性取得に亜ヒ酸が使われているか、毒耐性は亜ヒ酸に効果があるか、訊くべきことは多い。
今度、手紙を出そう。




