七作目の月曜日
週間総合ランキングの一番上にあったのは、『謝る人』だった。
筆名は太宰誠。作品ページには『AI利用あり』の表示が付いている。
二位との差は、十二点。
公開SNSの十万人を使わず、最後まで作品だけで届いた一位だった。
「太宰さん。取りましたよ」
返事はない。
分かっていたことなのに、俺はもう一度呼んだ。
「一位です。十二点差」
画面は暗いままだった。
太宰さんなら、二位との差まで聞きたがったはずである。使わなかった十万人の中から、誰か一人くらいは読んでいたのではないかと言い出すかもしれない。俺が規約違反ではないと答え、乱歩が調査を始め、芥川が規約を最初から読み直す。
そこまで考えて、誰もいないことをもう一度思い知らされた。
ほかの五作にも順位が付いている。乱歩と晶子は前週より上がり、一葉、漱石、芥川の作品にも、それぞれ最後まで読んだ人の数字が残っていた。
一位になったのは一作だけ。それでも六人全員が消えた。
最初に芥川が指摘したとおり、帰還条件には、誰の作品が一位になればよいのかも、誰が帰れるのかも書かれていなかった。
答えは、六人のうち誰か一人だったらしい。
帰れてよかったと思う。
本当に、そう思う。
それなのに、結果を見せられなかったことが腹立たしかった。六人が帰るための一位なのに、書いた本人たちは誰も順位を知らない。俺だけが広い家に残り、十二点差を見ている。
喜べばいいのか、寂しがればいいのか、自分でも分からなかった。
その時、自分の投稿者ページに未読通知があることへ気づいた。
『予約投稿を受け付けました』
作品名は、『最後の人類は、記憶の海で眠る』。
公開予定は、月曜午後七時。改稿版の全話が登録され、作品情報には『AI利用あり』が選ばれていた。
本文を開く。
主人公が食料庫で点検票を見つけ、記録から漏れた整備員の名を覚え、自分で同じ道を選び直す。俺が最後に保存した文章だった。
太宰さんが書き足した一文はない。題名も、あらすじも、俺が決めたままである。
だから許される、という話ではなかった。
「最後まで、それかよ」
誰も映っていない画面へ言った。
数字を見るところまでだと伝えた。原稿を直したり、公開したりする時は確認するとも、何度も言った。
俺は予約を取り消した。
迷わず押せたことに、少しだけ安心した。
人のためになるつもりだったかどうかと、勝手にしてよいかどうかは別である。太宰さんが消えたあとでも、そこを曖昧にはしたくなかった。
腹は立っている。
ただ、本人がいないので、言い合いにすらならない。
それがまた腹立たしかった。
予約の消えた下書きを残し、俺はパソコンを閉じた。
眠れないまま朝になった。
二階へ上がると、五つの部屋は昨夜のままだった。漱石の本も、芥川の資料も、乱歩の地図も片づけられない。勝手に触れば、本人が戻った時に文句を言われそうだった。
戻る保証など、どこにもないのに。
一葉の買い物メモも、晶子の当番表も残っている。いなくなったのは六人だけで、六人がこの家でしていたことは、どこを見ても残っていた。
階段を下りると、玄関のチャイムが鳴った。
村瀬さんが、蓋付きの大きな容器を抱えている。
「朝ご飯、多めに作ったの。昨夜は遅かったでしょう」
俺の後ろに誰もいないことを見て、村瀬さんは廊下へ目をやった。
「皆さんは?」
「帰りました」
「どちらへ?」
「元いた場所へ。たぶん、ですけど」
村瀬さんは驚かなかった。ただ、抱えた容器へ一度目を落とした。
「全員?」
「はい。一度に」
「そう」
短い返事のあと、村瀬さんは顔を上げた。
「どうして、昨日は誰も言わなかったのかしら」
そこで初めて、条件を説明していなかったことに気づいた。
「六人のうち誰かの小説が週間一位になれば、元の場所へ帰れる。それが、ここへ来た時に示された条件だったんです」
「それは聞いていなかったわ」
「すみません」
「秋人さんが謝ることではないけれど、大事なことは先に言ってほしかったわ。お別れを言えないでしょう」
「言ったら、もっと料理を持ってきたでしょう」
「今日も持ってきています」
容器を少し持ち上げられ、俺は謝る相手を間違えた気がした。
「昨日、また来週と言ってしまったわ」
「誰も訂正しませんでした」
「なら、聞いていても言ったかもしれないわね。帰れなければ来週、帰れたら、いつか別のところで」
「ずいぶん先まで有効な挨拶ですね」
「便利でしょう」
村瀬さんは、当然のように靴を脱いだ。
「どなたが一位だったの?」
「太宰さんです。『謝る人』が」
「あの方、最後には上手に謝れたのかしら」
「上手には、ならなかったと思います」
「では、よかったのね」
村瀬さんを台所へ通した。
容器の中には、だし巻き卵と煮物、それにいつもより多いおにぎりが詰められていた。一人で食べるには明らかに多い。
食卓には、昨夜の湯飲みと木製の台が残っている。
「それ、使ってくれたのね」
「太宰さんが、最後まで」
「そう」
村瀬さんは台の向きを整えた。画面は載っていないのに、いつもの場所へ戻すような手つきだった。
俺が一人分の皿を出すと、村瀬さんはもう一枚出した。
「村瀬さんも食べるんですか」
「一人では多いでしょう」
「俺なら三日で食べるんじゃなかったんですか」
「今日の秋人さんに三日分も預けたら、今日中に食べそうだから」
反論できず、向かい合って朝食を取った。
七人で囲んだ食卓に二人分の箸の音がする。一人よりましなはずなのに、空いた席の数がよく分かった。
「帰ってほしくなかったの?」
だし巻き卵を半分に切りながら、村瀬さんが尋ねた。
「帰れるなら、帰ってほしかったです」
「それと、いなくなって寂しいのは別でしょう」
簡単に言われて、否定できなかった。
「はい。寂しいです」
口にした途端、喉の奥につかえていたものが少しだけ下りた。
順位を見た時から、俺は六人が帰れてよかったと何度も考えていた。そう考えなければ、いなくなってほしくなかった自分を認めることになる。
両方でよかったのだ。
帰れてよかった。いなくなって寂しい。
「六人もいたんです。静かになるにしても、もう少し加減してほしいですよ」
「三人ずつ帰る?」
「それも困ります。残った三人が、次の一位を取るまで居続けるでしょう」
「食費は半分ね」
「そこじゃないです」
笑ったあとで、誰もいない席を見た。
寂しいと言っても、六人は戻らない。それでも、言う前よりは、空席を見ていられた。
「その太宰さん、最後に勝手なことをしていきまして」
俺はパソコンを開き、取り消した予約の画面を見せた。
自分の小説を、月曜の午後七時に公開しようとしていたこと。本文には手を入れていなかったこと。AI利用の表示まで付けていたこと。けれど、俺の許可は取らなかったこと。
村瀬さんは最後まで聞いてから言った。
「それは、怒っていいわね」
「怒りました」
「ご本人へ?」
「もういなかったので、暗い画面へ」
「一方的ね」
「勝手にいなくなった方が悪いでしょう」
「帰る条件を満たしたのに?」
「そういう正しいことを言う人が六人もいたんですよ。朝くらい俺の味方をしてください」
村瀬さんは煮物を一つ俺の皿へ足した。
「これでいい?」
「物理的ですね」
味方の形としては、かなり茶色かった。
「予約は取り消しました」
「それで、秋人さんは出さないの?」
「勝手に出されたくなかったんです」
「自分で出さない理由を聞いているの」
六人に囲まれていた時と同じだった。聞かれたくないところだけ、質問が短い。
「読まれなかったら、前と同じです」
「前と同じ小説なの?」
「違います」
「なら、前と同じではないでしょう」
村瀬さんはおにぎりへ手を伸ばした。
「それに、もう一人は読むわよ」
「村瀬さんですね」
「私が読まないと思っていたの?」
「思ってませんけど、自分で一人と言うんですね」
「二人と言って、知らない人を巻き込む方がいけないでしょう」
もっともだった。
誰かの名作を読んで、自分もこんなものを書きたいと机へ向かう人もいるのだろう。
俺の場合は違った。
文豪が五人も家に住みつき、一人はパソコンに棲みついた。書いたものを囲まれ、ここは誰が食事を用意したのか、この人物は自分で道を選んだのか、隠した真相に意味はあるのかと、逃げたいところを一つずつ聞かれた。
背中を押されたというより、前後左右から押された。
腹を立てて六人の書き込みを退けたあと、それでも俺は、自分から合評を頼み直した。六人の文章は使わず、六人に見つけられたものを、自分の言葉で書き直した。
名作を読んだから書けたのではない。
六人の話を聞いたから、一人では見えなかった人間を書けた。
その時間があったから、もう一度、自分の小説として完成させられた。
「出してみようかな」
俺が言うと、村瀬さんは首をかしげた。
「私に許可を取っているの?」
「違います。今のは決意表明です」
「では、もう少し決まった顔で言った方がいいわね」
「出します」
「はい」
ようやく、うなずいてもらえた。
帰り際、村瀬さんは玄関で振り返った。
「出したら、最初に教えて。前のも読んでいるから、違いが分かるもの」
「厳しい感想は明日にしてください」
「では、今夜は優しい感想を考えておくわ」
「感想は考えて作るものじゃないでしょう」
村瀬さんは答えず、隣の家へ戻っていった。
午後、俺は改稿版を最初から読み直した。
一度読み終え、誤字を二つ直し、最後の一文を元へ戻した。また読み直して、戻した一文をもう一度消した。
漱石なら、主人公と人工知能の距離を見る。
芥川なら、最後の秘密が選択へ結びついているか確かめる。
乱歩なら、読者へ渡した手掛かりを並べ直す。
一葉なら、記録から漏れた一人の明日を気にする。
晶子なら、その道を選んだのは誰かと尋ねる。
太宰さんなら、自分を人間だと思いたいのか、相手から思われたいのかと、答えにくい方を聞く。
六人がいなくても、六人の声は原稿の中に残っていた。
けれど、最後の一文を残すか消すかは、俺が決めた。
作品情報の『AI利用あり』も残した。太宰さんが文章を書いたわけではない。それでも、画面の中にいたあの男の問いがなければ、この改稿にはならなかった。
公開時刻は予約せず、その場で出すことにした。
午後七時を三分過ぎたところで、俺は公開ボタンを押した。
太宰さんが選んだ時刻を、そのまま使うのは少し癪だった。
作品ページが表示される。
閲覧は、まだゼロ。
週間ランキングにも載っていない。投稿しただけで急に読者が集まるわけではないことを、俺はよく知っている。
それでも、三か月前と同じ場所にはいなかった。
村瀬さんへ、作品の場所を送る。
『出しました』
すぐに返事が来た。
『決まった顔で押せましたか』
見ていたわけでもないのに、余計な確認だった。
『押しました』
『では、読みます』
六人がいたから、俺はもう一度書けた。
最後の一歩は、自分で選んだ。
数分後、数字が一つ増えた。
閲覧、一。
確認のために俺が開いた分ではなかった。
〈了〉




