第26話 七人目の読者
六作がランキングを上がり始めても、家の外で感想を聞ける相手はほとんどいなかった。
正体を隠している以上、知人へ気軽に勧めるわけにもいかない。
そこで俺は、村瀬さんへ六作を読んでもらえないか頼んだ。
低い生垣の脇にある木戸を抜け、初めて隣家の玄関まで原稿を持っていった。黒い瓦屋根の下に小さな縁側があり、庭の端には葱と菊が同じ畝に並んでいる。開いた引き戸の向こうには、ガラス戸の付いた本棚が二つ見えた。
「同じ時期に始まった作品なんです。感想を聞きたくて」
「六人分ね」
村瀬さんは理由を尋ねず、作品名を書いた紙を受け取った。
迷った末、俺は『最後の人類は、記憶の海で眠る』も一緒に渡した。六人へ感想を頼みながら、自分の作品だけ隠すのも違う気がしたからだ。
一週間後、煮物の鍋と一緒に、付箋を挟んだ七冊分の印刷原稿が戻ってきた。村瀬さんは細い銀縁の眼鏡を外し、紺色のカーディガンの胸元へ掛けた。
六人も食卓へ集まったが、村瀬さんは作者を当てようとはしなかった。
筆名を見れば、誰を意識した集団かは分かる。文章を読めば、長年の読者である村瀬さんには、さらに多くのことが伝わっていたはずだ。
それでも「あなたが書いたのでしょう」とは一度も言わなかった。作品から受け取ったものだけを、作品へ返した。
『相談役の空席』については、主人公が初めて自分の意見を書いた場面より、その後で返事を待つ間に何度も冷蔵庫を開けるところが好きだと言った。
「大きな決心をしても、お腹は空きますからね」
漱石は、自分では重要と思っていなかった一文へ印を付けた。
『善意の記録』では、疑われた店員が翌朝も制服へ着替える場面が忘れられないという。芥川が後から加えた部分だった。
「正しい記事が出ても、この方のお給料はすぐ戻らないでしょう。それでも着替えなくてはならないところが、残りました」
芥川は、その場面を加えるよう言った一葉へ一度だけ視線を向けた。
乱歩の作品では、怪人の正体より、履物店の娘が古い地図を折りたためない場面。一葉の作品では、夜勤の女性が値引きの札を貼る手を一度止める場面。
晶子の作品については、主人公へ反対した生徒の方が気になったらしい。
「先生が教室を続けることより、この方が辞めたあと何をするのか知りたくなりました」
晶子は反対する人物へ与えた数ページを読み返した。
乱歩には、怪人の仕掛けが最後まで公平だったと伝えた。ただし一番驚いたのは謎の答えではなく、閉店した店の看板を子どもたちが倉庫へ運ぶ場面だったという。
乱歩は少し残念そうにしながら、その感想を誰より細かく記録した。
最後に、太宰の『謝る人』。
村瀬さんは、主人公の下手な手紙を読んで笑ったと言った。
「上手な文章より、その人の顔が見えました。困った人だとは思いましたけど」
「お嫌いになりましたか」
太宰が尋ねる。
「嫌いになるのと、読まなくなるのは別ですよ」
太宰は返事を探し、結局、ありがとうございますとだけ言った。
村瀬さんが見ていたのは、構造や順位ではなかった。次の日、登場人物がどうしたのか。その場面を読んだ自分が、誰を覚えていたか。六人に返したのは、長く小説を読んできた一人分の記憶だった。
帰り際、村瀬さんは俺にも尋ねた。
「秋人さんの小説は、直しているの?」
「まだ迷ってます」
「最後の人は、誰かに会いたかったのかしら」
一緒に渡した『最後の人類は、記憶の海で眠る』のことだった。
「人類を残したかったんだと思います」
「人類ではなく、誰か一人の顔を思い浮かべたことはあるの?」
答えられなかった。
村瀬さんが帰ったあと、俺は久しぶりに旧作の原稿を開いた。
主人公は人類の未来を語っているのに、具体的な誰かの名前を一度も思い浮かべていなかった。孤独を大きく書こうとして、人間を一人も置いていない。
六人から最初に指摘された時より、村瀬さんの短い問いの方が、今はよく分かった。
翌朝、食卓へ行くと、印刷した原稿に六色の書き込みが増えていた。
直した文章、削る候補、新しい会話。感想の範囲を越え、六人がそれぞれの方法で手を入れている。
俺は原稿を持ち上げた。
「これは、誰の許可で直したんですか」




