第22話 十万人を使えない男
十万人へ作品名を教えてはいけない。
太宰は約束を破らなかった。
少なくとも、最初の二日間は。
三日目、公開SNSへ次の文章が投稿された。
『最近、ある男が謝る話を書いています。私ではありません。私は謝るべきことを、まだ何もしていませんから。』
作品名も筆名もリンクもない。規則の文字だけ見れば、違反ではないように見える。
「これは匂わせですよね」
「創作中の近況です」
太宰は平然と答えた。
翌日には、主人公の職業をぼかした投稿。その次には、更新時刻とほぼ同じ時間に「今夜は誰かを許したくなるかもしれません」と書いた。
一つだけなら特定できない。しかし重ねれば、候補は絞られていく。
乱歩が面白がり、一般の読者になったつもりでノベルポートを検索した。題材、更新時刻、AI利用表示。三つを組み合わせると、十分ほどで『謝る人』へたどり着いた。
「実に巧妙ですが、謎としては手掛かりが多すぎますな」
「感想を求めていません」
二人が楽しそうに話しているのを見て、俺は太宰の公開SNSを閉じた。
乱歩にも、特定までの手順を公開しないよう頼んだ。本人は謎解きの記録を残したがったものの、今回は解けないままにすることへ同意した。
「この投稿は消してください」
太宰の笑みが止まった。
「作品名は出していません」
「乱歩さんが特定できました。十万人の中にも、できる人はいます」
「でも、僕が持っている読者です。使えるものを使わずに負けろと言うんですか」
「ほかの五人も、本名を使っていません」
漱石や芥川の名で新作を出せば、それだけで注目される。一葉や晶子の紙幣の肖像も、乱歩の知名度も封じている。太宰だけが強みを奪われたわけではない。
「僕には身体がない。それでも、皆さんと同じですか」
太宰の声から、いつもの軽さが消えた。
「同じじゃないです」
俺もごまかさずに答えた。
「太宰さんにしかできないことも、太宰さんだけができないこともあります。でも、家と六人の正体を守る約束は、別です」
画面越しに沈黙が続いた。
一葉は、太宰が数字を持つまでに一人ずつ返事をしてきたことも労力ではないかと言った。一方で、その労力を使うために他人との約束を破ってよいわけではないとも続けた。
漱石は太宰を説得しようとせず、「決まりに反対なら、破る前に話すべきだった」とだけ述べた。
誰も、太宰だけが卑怯だとは言わなかった。それでも、したことを曖昧にもしてくれない。
太宰は投稿を消さなかった。代わりに、もう一件、作品の一節を連想させる文章を出した。
そこで俺は、事前に決めたとおり、太宰の公開SNSへの接続許可を停止した。
検索、執筆、ノベルポートへの更新は使える。止めたのは、公開SNSだけである。
「僕を黙らせるんですね」
「約束を破った行為を止めます。太宰さんの文章も、太宰さん自身も否定してません」
言いながら、自分の声が固くなっているのが分かった。
面白がって許可を出したのは俺だ。それでも、決めた一線を笑って済ませることはできなかった。
接続を止めたあと、自室へ戻ってからも気分は晴れなかった。正しい処置をしたという確信と、身体のない太宰から外へつながる場所を一つ奪った感覚が、同時に残っている。
太宰は大げさに見捨てられた顔をしたが、今回は誰も慰めなかった。晶子は、停止期間を守ることと、次の原稿を書くことだけを確認した。
翌朝、書斎の前で声をかけると、太宰は普段どおり返事をした。大げさに恨み言を言わないことが、かえって堪えているように見えた。
反応を見られないまま、太宰は『謝る人』の続きを書いた。
いつもなら一文ごとに受けを確かめたくなる場面で、主人公は、誰にも見せない手紙を書き始める。最初の一行を何度も書き直し、結局、宛名の次で手が止まった。
更新後、その回には「誰へ書こうとしているのか」「次は送れるのか」という感想が付いた。文章の巧さではなく、止まった手紙の先を待つ言葉だった。
太宰は数字を見て笑ったものの、公開SNSが戻ったあとも、その回についてだけは何も投稿しなかった。まだ主人公が何を書くか、自分でも決められていなかったからだ。




