第19話 原稿を読む夜・下
二度目の合評では、晶子の『わたしの時間割』と、太宰の『謝る人』を中心に読んだ。
晶子の主人公は、夜間教室を続ける女性だった。夫が遠方への転勤を打診され、教室、生徒、夫婦の生活が同時に動き始める。
第一稿より、夫の反対はずっと強くなっていた。主人公の仕事を軽んじてはいないが、自分の仕事も簡単には手放せない。二人とも相手なら分かってくれると思い、肝心な希望を言わない。
「前より、この方の困り方が分かります」
一葉が言った。
「でも、生徒の方々は、先生が教室を続けると決めただけで安心してしまうのですね」
主人公の決意が強いほど、周囲がそれを証明する役になっている。一葉は、生徒にも仕事や家族の都合があり、教室を続けてほしい者ばかりではないはずだと指摘した。
晶子は反論せず、その場で余白へ書き込んだ。
「主人公へ反対する人にも、その人の明日がある。分かりました」
決断が速い。しかし、前夜に全文を書き直した人なので、理解がそのまま大規模な改稿へつながるのが怖かった。
「今夜は寝てくださいね」
俺が頼むと、晶子は約束せずに笑った。
太宰の『謝る人』は、読み始めた瞬間から先へ進みやすかった。
主人公は、SNSで炎上した人の謝罪文を代筆している。悪くない者にも、本当に悪い者にも、読んだ人が許したくなる文章を書く。そのうち自分の寂しさまで、人に好かれる告白へ整えるようになる。
笑えるところで笑い、次の段落で急に痛くなる。六人の中で最も現代の読者へ近い文章だと、俺にも分かった。
「うまいですね」
正直に言うと、太宰は喜ぶより先に芥川を見た。
芥川はしばらく原稿を読み返した。
「読者が好む傷つき方を、先に用意しているように見えます」
太宰の表情から笑みが薄くなった。
「読みやすくする工夫です」
「工夫そのものを否定してはいないよ。ただ、主人公が格好悪くなる前に、語り手が先回りして許している」
「AIが読者の反応を予測してはいけませんか」
論点が少しずれた。
「AIだからとは言っていません」
晶子が逃げ道を塞いだ。
「あなたが書いたのなら、この文章を自分のものとして引き受けるかを聞いているのです」
太宰は、自分が本人か模倣か分からないことを語り始めた。どの言葉も本当なのだろう。しかし今は、作品への批評を本人性の問題へ移そうとしているようにも見えた。
以前の俺なら、場が悪くならないよう別の話題を探していたと思う。
けれど、俺の小説を六人が本気で読んだ夜を思い出した。
「俺は、文章のうまさなら太宰さんが一番早く読ませると思いました」
全員の視線が集まる。
「でも、続きを読みたいのは、主人公が誰にだけ本当のことを言えないのか気になったからです。太宰さんがAIかどうかとは、別の話じゃないですか」
うまく言えた自信はなかった。太宰はすぐには笑わず、原稿の後半を開いた。
そこには、主人公が昔から知る一人へ手紙を書く場面がある。完璧な謝罪文に整えるほど、送る相手の顔が見えなくなっていた。
「この手紙を、もっと格好悪くすればよいのでしょうか」
「よくするために格好悪くするなら、同じことでは?」
芥川が答えた。
太宰は嫌そうな顔をした。直し方を尋ねても答えは出ず、手紙の場面だけが未完成の印を付けられたまま残った。
その間も、晶子の指は動いていた。
一葉に指摘された生徒たちへ、それぞれ別の事情と決断を書き足している。読み直してみると、反対する者にも明日はできた。その代わり、主人公と夫が何を選ぶ話だったのかが見えにくくなっていた。
「全員を書けばよい、という意味ではありません」
一葉が遠慮がちに言った。
「ですが、皆に事情があるとおっしゃったでしょう」
晶子の返事は少し硬かった。
「あります。でも、同じ長さで書かなければならないとは思いません。わたしの答えを使うのではなく、先生が残したい方を選んでください」
晶子はすぐには答えなかった。書き足した文章を何度か上下させたあと、珍しく保存せずに手を止めた。
「分かったつもりになるのが、早すぎたようです」
その夜は直さず、翌朝になってから、教室を離れる一人だけを残した。主人公の決断に反対する人物だったが、その人自身の次の行き先も見える。全員を救わず、最初の結論へも戻らない改稿になった。
二度の合評を経ても、六人は他人の意見を全部は採用しなかった。すぐには採用できない意見も、そのまま残った。
乱歩は謎の規模を小さくせず、一葉は期限の案を書き留めたまま、まだ原稿には入れなかった。漱石は管理人を加え、芥川は店員の明日を書いたが、構造そのものは守った。晶子は一度失敗した改稿から一人だけを選び直し、太宰は手紙の場面を未完成のまま抱えた。
六つの第一話と公開予定がそろった。
俺は予約投稿の日時を一つずつ確認し、最後のボタンを押す前に全員へ画面を見せた。
翌週から、六作の競争が始まる。




