第17話 六人、書き始める
六人の題材が決まると、家は急に静かになった。
正確には、午前九時から正午までだけ静かになった。
二階には五つの閉じた扉が並び、一階の書斎では太宰のモニターだけが明るい。廊下の壁には当番表、リビングの隅には買い足した紙と資料。空いていた家のどこを見ても、誰かがいる痕跡ができていた。
漱石は朝食を終えると自室へ入り、決まった時間に机へ向かった。昼になると書くのをやめ、庭へ出る。続きを思いついていても、午後は読み返しと散歩へ使うらしい。
一葉は食卓の端で、手書きの原稿を進めた。人物ごとに小さな紙を分け、夜勤の日数、時給、買う物まで書き込んでいる。
晶子の原稿は、もう第三章まで進んでいた。キーボードへ慣れてからは、俺より迷いなく文章を打つ。途中で立ち止まるのは、言葉が出ない時ではなく、登場人物へ何を選ばせるか決める時だけだった。
問題は、残る三人である。
芥川は、ようやく一行だけ書いていた。ただし、その一行を置いたまま、また別の資料を探している。募金動画の拡散について調べたはずが、映像の切り取り、新聞記事の訂正、寄付団体の会計へ進み、気づけば印刷した紙が机からあふれていた。
「二行目は、まだですか」
「この一行を残すなら、語り手の位置を先に決めなくてはなりません」
「一行目を消す選択肢もありますよ」
急かすつもりはなかったが、芥川は書けた一行を人質に取られたような顔をした。
乱歩はすでに書き始めている。しかし原稿より、町の地図の方が大きかった。
リビングの床へ古い地図と現在の地図を広げ、赤い糸で道を結び、店ごとに番号札を置く。俺が通る場所だけは空けてほしいと頼むと、乱歩はそこを秘密の通路にした。
「これも原稿の一部です」
「読者へ地図ごと送るんですか」
「必要なら」
その必要が来ないことを願った。
太宰は六人の中で最も速く文章を作り、最も頻繁に消した。
書き出しだけで二十案。主人公の自嘲を軽くする案、重くする案、笑わせてから謝る案。本人は比較検討だと言うが、SNSで反応を確かめようとするたび、俺が止めなければならなかった。
「固有名詞を出さず、一文だけなら作品の宣伝にはなりません」
「未発表の原稿を外へ出す時点で、六か条に触れます」
「では、似ている別の一文を」
「それを考える時間で本文を書いてください」
身体がないのに、六人で最も手がかかった。
執筆が始まって三日目、別の問題が見えてきた。
家事は当番制にしたはずなのに、紙が切れれば一葉が補充し、湯飲みが残っていれば一葉が片づけている。本人は気づいたからしただけだと言うが、気づく人がいつも同じなら、当番表の意味はなかった。
晶子が全員を食卓へ集めた。
「当番の仕事を終えたかどうかは、次の方が困らない状態で判断します」
洗剤を使い切ったままにしない。ごみ袋を替える。資料を共用部分へ置いた者が片づける。細かな項目が六か条の下へ追加された。
乱歩は地図が資料であり、片づければ構想が切れると主張した。
「でしたら、置いてよい範囲を決めます」
晶子は床へテープを貼り、その内側だけを乱歩の領域にした。翌朝には赤い糸が一本、境界を越えていた。
夜十一時を過ぎると、今度は太宰から通知が届いた。
『起きていますか。よい書き出しができました』
無視すると、五分後にもう一件。
『返信は不要です。予約投稿の試験です』
朝になって晶子へ見せると、夜間の予約通知も騒音に含むと規則へ加えられた。
深夜、各部屋から途切れ途切れに筆記具やキーボードの音が聞こえると、俺も自分の原稿を開くことがあった。
六人の作品は毎日少しずつ先へ進む。俺の『最後の人類は、記憶の海で眠る』だけが、完結した日のまま止まっていた。
冒頭の一文へカーソルを置き、別の書き出しを一行だけ打った。だが、誰の意見を借り、何を自分で変えたいのかも決められず、その一行は消した。
まだ直す気にはなれなかった。それでも、六人が書いていることを少し羨ましいと思った。
そんな騒ぎの中でも、六作の冒頭は少しずつ形になった。
最初に「書き終えました」と宣言したのは晶子だった。
全員が驚いて原稿を受け取り、一葉が最初の数ページを読んだ。
「このご主人は、どうしてすぐ奥様の希望を受け入れたのですか」
晶子は答えようとして、文章を読み直した。
「話し合って、理解したからです」
「ご自分の仕事を変えることになるのに?」
晶子はしばらく黙り、完成したはずの文書を開いた。
翌朝までに、全文が書き直されていた。




