第16話 散歩用の身体
最後の取材散歩は、漱石と太宰だった。
太宰には歩く身体がないため、俺がスマートフォンを持つ。本人はそれを「散歩用の身体」と呼んだが、持ち主は俺である。
「今日は、勝手に通行人へ話しかけないでください」
「僕が話しかけたのではなく、三宅さんのポケットから声がしたことにすれば」
「余計に怖いですよ」
漱石は朝からこのやり取りを聞き、散歩へ出る前にもう疲れた顔をしていた。
川とは反対側の住宅街を抜け、公園へ向かう。低い塀の上から柿の枝が伸び、自転車の子どもが白い線の内側を走っていく。漱石は家の形より、門の前で立ち話をする人や、子どもを送ったあとも会話を続ける親たちを見ていた。
欅の葉が落ち始めた小さな公園の掲示板には、住民用の連絡アプリを案内する紙が貼られている。
「回覧板を、この中で回すのかね」
「お知らせも相談も、だいたいスマートフォンでできます」
俺が画面を見せると、漱石は騒音、落とし物、共有スペースの使い方をめぐる書き込みを順に読んだ。
「顔を合わせずに話せるのに、ずいぶん人の顔色をうかがう文章だ」
一度だけ穏当な返事を書いた住人へ、次々に相談が集まっている。どちらの意見にも理解を示した結果、その人が町内の調整役のようになっていた。
「夏目先生と似ていますね」
太宰が言った。
「どこがだね」
「責任者ではないと言いながら、最後には皆さんの話を聞いているところが」
「君の話まで聞いた覚えはない」
漱石は画面を閉じようとしたが、端末を持っているのは俺なので失敗した。
「この人物は、頼られることを迷惑がっている」
漱石は住人の書き込みをもう一度見た。
「しかし、まったく嫌なら返事をしなければよい。必要とされることを、少し喜んでもいるのだろう」
自分のこととは認めないまま、その人物を主人公にする気になったらしい。
公園を出たところで、買い物帰りの村瀬さんに会った。紺色のカーディガンの袖を少しまくり、布の買い物袋を片手に提げている。
「お散歩ですか」
「取材だそうです」
俺が答えると、太宰が画面の中から姿勢を正した。
「先日は、台をありがとうございました。改めまして、太宰治を名乗っております」
「ええ」
村瀬さんは驚くことなく、スマートフォンを両手で持つ俺ごと見た。
「あなたのものは、若い頃から何度も読みましたよ。昔は、弱さを見せて人を困らせる方だと思って、少し苦手でした」
太宰の笑みが一瞬だけ固まった。
「昔は、ということは、今はお好きですか」
「年を取って読み直したら、困らせる人も、困らされる人も、同じくらい寂しかったのだと思いました。好きかどうかは、まだ決めていません」
三千人の反応へ次々に返事をする太宰が、言葉を探して黙った。
村瀬さんは漱石にも頭を下げたが、本人かどうかは尋ねない。昔読んだ作品の話を、目の前にいる一人へ渡しただけだった。
帰り道、太宰は珍しく通行人へ話しかけなかった。
「大勢に好かれる言葉より、一人に嫌われない言葉の方が難しいですね」
やがて、SNS用の謝罪文を代筆する男の話を考え始めた。誰からも許される文章を書けるのに、昔から知る一人へだけ本心を伝えられない男。
「題は『謝る人』にしましょう」
漱石の方は、住民アプリの相談役を主人公にした『相談役の空席』という題を考えていた。
帰宅すると、太宰は村瀬さんの言葉をSNSへ書きかけた。
『今日、昔からの読者に――』
そこまで表示し、自分で消した。
「投稿しないのか?」
「本人の許可なく、私生活を公開してはいけないのでしょう」
六か条を抜け道から眺めていた太宰が、初めて自分から規則を守った。
ただし、消した文章を下書きへ保存したことまでは、見なかったことにした。




