第15話 書店と喫煙所
芥川と晶子の取材先は、大型書店になった。
俺も電車で同行したが、二人の後ろを歩いているだけで十分だった。晶子は案内図を見て必要な売り場を決め、芥川は入口の新刊棚から一冊ずつ確かめて進まない。
「全部読むおつもりですか」
晶子が尋ねた。
「何を書くか決めるには、先に何が書かれているか知る必要があります」
「決めてから、必要なものを調べればよいのではありませんか」
「必要なものを決めるために調べているのです」
間違ってはいない。だからこそ終わりが見えなかった。
芥川の買い物かごには、報道、映像拡散、寄付、裁判、心理学、現代語の辞書が積み上がっていく。晶子は、働く人の学び直し、夜間学校、夫婦の転勤、時間管理に関する本を数冊選ぶと、もう次の売り場へ向かった。
「与謝野さんは、資料が足りなくなる心配はないのですか」
「足りなくなれば、また来ます。書かなければ、何が足りないかも分かりません」
芥川は反論せず、今度は晶子の選んだ本まで確認し始めた。
昼を過ぎた頃、晶子のかごには六冊、芥川のかごには二十冊以上入っていた。
「全部必要ですか」
俺が尋ねると、芥川は一冊ずつ必要な理由を説明しようとした。五冊目で晶子が止め、今日読む本と後で調べる本に分けさせる。
最終的に十二冊まで減ったが、本人は負けたような顔をしていた。
書店を出たあと、川沿いの道を歩いた。少し離れた場所に灰皿が設けられており、芥川と晶子はそこで煙草を取り出した。
俺は風上のベンチへ座り、二人の話が聞こえる程度の距離を取った。
「夏目先生の弟子として紹介される本もありました」
晶子が言った。
芥川は火を点けたまま、すぐには答えなかった。
「間違いではありません」
「それだけでもないでしょう」
「もちろんです。しかし、後の時代の人にどう並べられるかは、僕には変えられない」
書店には芥川賞の名を掲げた棚もあった。自分の死後に作られた賞と、その受賞作を見たあとで、芥川は漱石の弟子として紹介される自分も見つけた。
認められていないわけではない。むしろ名は大きく残っている。それでも、誰かの次に置かれることと、自分の文章を読まれることは同じではないのだろう。
「敬意と服従は別です」
晶子はそれだけ言った。
先生を尊敬するなとも、離れろとも言わない。芥川が自分で考える余地を残したまま、煙を吐いた。
「与謝野さんは、調べる前から答えを決めているように見えます」
芥川が返した。
「決めているのは、主人公に選ばせるということだけです」
「それも答えでは?」
「選んだ結果まで、わたくしが先に決めればそうなるでしょうね」
晶子は怒らず、自分の欠点も含めて受け取ったようだった。
帰宅後、二人は食卓の反対側へ座った。
芥川が考えたのは、募金箱から金を抜く男の動画をめぐり、善意を語る人々の証言を集める編集者の物語だった。行為の意味より、誰もが自分を善人に見せるため、何を語らなかったかを描く。
晶子が考えたのは、働く人の夜間教室を続ける女性が、夫の転勤と自分の仕事の間で、互いの時間を交渉し直す物語だった。
「題は『善意の記録』にします」
芥川が仮題を書き、資料を分類し始める。
「わたくしは『わたしの時間割』」
晶子は新しい文書を開き、その場で第一章を書き始めた。
一時間後、晶子の画面には数ページ分の文章があった。
芥川の机には、分類を終えていない資料が十二冊積まれていた。
まだ一行も書かれていなかった。




