第四話 音貌の主
門が開かれ、何本もの松明が庭へ投げ込まれた。
炎が一気に辺りを赤々と照らし出す。
次郎は松明を片手に、一人、庭へ踏み入った。
あの不穏な感覚が強まる。
だが、背の守り本尊に加護を念じると、不思議と恐れが引いた。ずんずんと歩を進め、庭の中ほどで足を止める。
「我こそは、傍目荘の領主、傍目次郎である。賊に告ぐ。四方は既に固めておる。もはや逃げ道はない」
屋敷から漏れる異様な響きをかき消さんばかりの、大音声であった。
「神妙にするなら命までは取らぬ。怪我を負うたなら手当もしてつかわす。このような仕儀に及んだからには事情があろう。我が前にて身上を語り、前非を悔いるがよい。さすれば後の身の振り方も考えてくれよう。あくまで刃向かうなら、総掛かりで攻め抜き、きっとその首を隱田川に晒してくれん。早々に出てまいれ」
その時、屋敷から聞こえていた唸りが、ぴたりと止んだ。
「次郎様……おお、次郎様。お助けくだせえ」
亡者が地の底から這い上がるような、低く苦悶に満ちた声が響いた。
「儂は賊ではございやせぬ。八梅棟品にございます」
屋敷の外がざわめいた。
次郎は思わず一歩踏み出す。
「棟品、無事であったか。苦しかろうが、暫しの辛抱だ。賊と直接話がしたい。代われ」
返事はすぐに返った。
「……次郎様、ここには元より賊などおりやせぬ」
次郎は眉を吊り上げた。
「偽りを申せ。この庭でお主の家人を二人も打ち倒した大男がいるであろう。なぜ庇い立てをする」
しばしの間を置き、観念したような声が響く。
「その大男と申されるのは、儂のことでございやしょう」
一瞬、庭の空気が凍りついた。
「今、参りやす……参りやすが」
声が震えている。
「次郎様……次郎様なら、儂を見捨てねえはずだ」
次郎は息を呑んだ。
「どんな姿になっていようとも、儂は八梅棟品にございます。……約束して下せえ。本当に、約束して下せえ。いきなり斬り掛かったり、矢を射掛けたりなさらねえで下せえ」
(まさか、まさか姿が……)
次郎が返答する暇もなく、母屋の奥から、どしどし、ごとごとと何かが動く音がした。
「いかん! 待て、棟品――」
次郎が叫んだ時には、もう遅かった。
母屋の出入口から、まず丸太のように太い腕が這い出した。
ついで、軒先をめりめりと押し上げながら、肥え太った巨体がぬうと立ち上がる。
「気づいた時には……」
声は野太く、地を震わせるほどでありながら、どうしようもなく悲しかった。
「最初は止めるつもりだったのですだ。手加減をしておったはずなのに」
松明の炎が、その姿を赤黒く照らした。
背丈は人の三倍近い。
丸々と肥えた胴から人のような太い手足が生え、顔の前では長い鼻がだらりと垂れている。口の両脇からは猪より長い牙が反り上がり、耳のあるべき辺りには魚の鰭を思わせる異様な皮膜が広がっていた。見れば見るほど、人とも獣ともつかぬ。
だが、その化物は、確かに八梅棟品の声で泣いていた。
「……おらの手で、みんな」
その巨体が震える。
「喰ろうた覚えはねえだ。ただ、腹が……どうにもならねえ」
その言葉が終わるや否や、三郎が号令を発した。
「放て!」
一瞬の静寂。
「放て! 放て! それを外へ出すなっ!」
三方から火矢が飛来し、どすどすと棟品を打ち据えた。
激しく火花は散る。だが、突き立つ矢は一本もない。ぽと、ぽとと、力なく地へ落ちるばかりである。
何本かは母屋の屋根にも突き刺さった。
ちろちろとした炎がじわじわ火勢を増し、立ち昇る灰色の煙を赤く染める。
「三郎! 何をしておる! 止めんか、止めい!」
我に返った次郎は絶叫した。
この、隠れもなき歴戦の大将が上げた情けない上擦り声は、ついに民の士気を崩壊させた。すでに卒倒している者を除き、動ける者は皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのである。もはや誰ひとり火を消そうともせず、隊伍を立て直そうともしない。
背後で母屋が大炎上する中、棟品は矢を礫のように浴びていた。
そして、天を仰いだ。
「三郎様……」
一瞬、縋るような響きが宿る。
だが次の瞬間、その声は変わった。
「……いやさ、三郎」
低く、湿った響きだった。
「やっぱり、こう来るだか」
三郎の顔色が、わずかに変わる。
だが、何も言わない。
「やっぱり立前振り回して、見放すだか」
棟品の息が荒くなる。
「あの使いでの言葉、本当だと思ってきただに。おらァ疑うとった。それでも、あんたなら少しは分かっとると思っただ」
次郎は振り向きざま、三郎を見た。
三郎は青ざめていたが、その目の底には別のものがあった。恐怖だけではない。秩序を乱す異物を前にした時の、冷えた拒絶である。
「ああ……そういうことだか」
声が歪んだ。
「おらは……もう、人じゃねえだな」
その長い鼻が、力なく揺れる。
だが次の瞬間、棟品の貌に浮かんだのは、深い絶望よりも濁った憎しみであった。
「許さねえ。許さねえともさ」
慟哭とともに、棟品は眼前の次郎を片腕で薙ぎ払った。
次郎の身体は木片のように弾き飛ばされる。
「どけ、次郎様……おらは、あいつを叩きのめさにゃならん」
そのまま棟品は、地を揺らして三郎へ向かって突進した。
次郎は地へ叩きつけられながら、はっきりと悟った。
もう、何ひとつ間に合わぬ。




