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天狗の像 心願成就の貌(かたち)  作者: 矢子沼蜻蛉


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第五話 天狗の像

「三郎――三郎殿はどうした」


 次郎は叫ぶようにして身を起こした。

 掛けられていた衣が肩から滑り落ちる。


「主様……!」


 横から嗚咽が聞こえた。

 見れば、枕元に控えていた訥平(とっぺい)が、年甲斐もなく泣いている。


 次郎は息を整え、ようやく周囲を見回した。

 そこは見慣れた自分の寝所であった。


「おお、いかん。皆へ知らせねば」


 訥平はそう言うや、慌ただしく立ち上がって部屋を飛び出した。


 次郎はその背を見送り、ゆっくり手足を動かしてみた。

 痛みはない。五体も揃っている。守り本尊の加護か――そう思ったが、すぐ別の不安が胸を押しのけた。あれから、どうなったのか。


 ほどなくして、外から大きなどよめきが上がった。

 主の無事が伝わったのであろう。それだけで家中の気が少し持ち直したのだと知れた。


 やがて、聞き慣れた足音とともに訥平が戻ってくる。

 戸口に片膝をついた。


「主様。皆、ようやく落ち着きを取り戻しました。具合はいかがですか」


 次郎は頷き、それより先に問うた。


「三郎殿は。棟品(むねかず)は。あれからどうなった」


 訥平は目を伏せた。


「三郎様は……ご無念にございます。亡骸は、すでに隱田(かくれた)のお屋敷へお送りしております」


 次郎は、しばらく言葉を失った。

 訥平は続ける。


「棟品が変じた化物も、すでに死んでおります」


「……三郎殿が討ったのか」


「いえ」


 訥平は首を振った。


「人の手ではありませぬ。雷に打たれ、絶命したと聞き及んでおります」


 次郎は、安堵とも失望ともつかぬ息を吐いた。

 あれを人の手で討てたとは、もとより思えなかった。雷に打たれたというなら、むしろ腑に落ちる。


「棟品の母屋は焼け落ちました。ですが、不思議なことに、それ以上は燃え広がっておりませぬ」


「何だと。あの火が、あれで止まったというのか」


「はい。雨もなく、火消しも間に合わなんだはずにございますが……それでも、そこで止まったとのこと」


 訥平は、あらためて被害を告げた。

 三郎とその従者五名。八梅棟品(やばいむねかず)と、その家族・家人九名。死者は合わせて十四。さらに棟品の母屋と財は焼け失せ、保の者どもにも、正気を失ったままの者が少なくないという。


「……甚大だな」


 次郎は低く言った。

 三郎の遺した家も、八梅保(やばいほ)も、このままでは立ちゆくまい。


「やるべきことは山ほどある」


 それだけ言うと、次郎は目を閉じた。

 以後ひと月あまり、彼は三郎の家の始末と八梅保の立て直しに忙殺されることになる。


 そして、八梅保の変からひと月余り。

 目先の騒ぎがようやく収まりかけた頃、次郎は自邸で、一人の行者と向かい合っていた。


 名を観音丸という。

 高結いの髪に、白衣と緋袴をまとい、足もとには脚絆をつけている。一見は童子だが、もう何十年もこの姿のままであることは、誰もが知っていた。加持祈祷が病に効くことでも広く知られている。


 その柔らかな物腰と、行き届いた気遣いゆえに、信を置く者は多い。

 だが次郎は、折に触れて、この行者の笑みがどこか薄い膜のように見えることを思い出していた。


 観音丸の脇には、素木(しらき)の箱が一つ置かれていた。


「この一件は、少し整理が必要だね」


 そう言って、観音丸は箱にそっと手を置いた。


「何かわかったことがあるなら、教えていただきたい」


 次郎が言うと、観音丸は静かに蓋を開いた。

 中から取り出されたのは、半ば炭のように焼け爛れた木像である。だが、形はまだ残っていた。

 丸々と肥えた胴。

 そこから生えた太い手足。

 顔には八目鰻(やつめうなぎ)のようにだらりと垂れた長い鼻。

 口の両脇からは牙が反り上がり、耳のあるべきところには、魚の(ひれ)を無理に広げたような皮膜がついている。


 次郎は息を止めた。

 あの夜、棟品を名乗って庭に現れた化物と、同じ姿だった。


「焼け跡に残っていたものを、回収しておいたよ」


 観音丸は木像を膝に置いた。


「人はこれを、天狗の像と呼んでいるね」


 そこで観音丸は、次郎と訥平を見た。


「これについて、どこまで知っている?」


 次郎は、すぐには答えられなかった。

 訥平もまた、言葉を失っている。


 二人とも思い出していた。

 かつて別在寺(わけありじ)瀞具上人(とろぐしょうにん)に、禍々しい小像をいくつも見せられたことを。


 疫病が郷を食い荒らし、他に縋るものもなかった頃である。


「如何なる神にお縋りするか、あらかじめ知らねばならぬ」


 そう言って上人は、薄暗い小部屋へ二人を案内した。

 そこには、仏とも神ともつかぬ異様な木像がいくつも並んでいた。


 その中に、あったのだ。

 後に守り本尊となる蛇神の像の、すぐ傍らに。

 この天狗の像が。


「見たことはある」


 ようやく次郎はそう言った。


「昔、上人に見せられた。確かに天狗の像と呼んでおったな。守り本尊と同じ者の手で彫られたはずだ」


 観音丸は、少しだけ目を細めた。


「そう。この像は守り本尊と、出どころを同じくしている」


 そこで一度、言葉を切る。


「二人とも、人が人ならぬ姿へ変わるところは……すでに経験しているよね」


 次郎も訥平も、全身の筋がこわばるのを感じた。

 脳裏によみがえるのは、あの時の光景である。人の顔を残したまま、身体だけが大蛇のようにうねり変わっていく。助けを求める叫び。それに何ひとつできなかった自分たち。


「なぜ、それを知っておられる」


 次郎が問うと、観音丸はまっすぐ答えた。


「知っているからだよ」


 穏やかな声だった。

 だが、その穏やかさは、何かを慰めようとする人の声ではなく、手持ちの事実を静かに並べる者の声であった。


「"祟り"にしろ、"呪い"にしろ、便利な言葉だね。原因を外に置けるから」


 観音丸は焼け爛れた木像を、指先でそっとなぞった。


「でも、実際は、因果が帰結しただけ」


 次郎も訥平も黙ったまま、観音丸の口元を見ていた。


「思いを神へ取次ぐ法具なんだ。この像も、守り本尊も」


 そう言って、観音丸は守り本尊へ目を向ける。


「厄災消除を願い、崇めれば叶えられる。冒涜して、不敬を働けば罰せられる。」


 そして、静かに続けた。


「次郎様。あなたが後添えを取らないのは、それと無関係じゃないよね」


 次郎はしばらく口を開かなかった。


 やがて、ひどく疲れた声で言った。


「……似たことは、昔に上人からも聞かされた」


 一度、言葉を切る。


「妻が守り本尊を焼こうとした時、儂は止めきれなんだ。その罰が妻子に下った」


 声は低かった。

 怒りでも嘆きでもない。長く抱え込みすぎて、乾ききった声だった。


「儂自身も、姿こそ変えられなんだが、許されたわけではないと知った。それゆえ、血筋は三郎とその子らへ継がせるつもりでいた。だが、守り本尊を恨んではおらぬ。むしろ崇めておる。干魃も、水害も、疫も、この世には人の手に余る責め苦が多すぎる。守り本尊を迎えて以来、隱田(かくれた)の郷はそれらを免れてきたのだ」


 観音丸は微笑んだ。

 その笑みは穏やかで、誰の目にも親しげに見える。だが次郎には、その穏やかさが話の中身とどこか噛み合っていないように思えた。


「そう。守り本尊の加護は手厚いよ。でも、これは違う」


 そう言って、天狗の像へ目を落とす。


「求める者の身と心を、自分へと吸い寄せる」


 次郎は眉をひそめた。


「吸い寄せる……だと」


 観音丸は頷いた。


「存在そのものが、この神に近づいていくんだ。棟品さんのように」


 次郎はゴクリと喉を鳴らした。


「人によって進み方は違う。三郎様のように、望みが少なければ、ゆっくり変わる。棟品さんのように、多くを望めば、変化は早い」


 少しの間。


「棟品さんは、ああなりたかったわけじゃない。でも、力ずくで誰にでも我を通せる者には、なりたかったんだろうね」


 次郎は返す言葉を失った。

 観音丸は続ける。


「三郎様もまた、まったく無関係ではないよ。人の和を守るつもりで、人を従わせたいと思っていた。だから、それを願った」


 その言葉に、次郎はあの夜の三郎の口調を思い出した。

 民の命、郷の秩序――口にするのは正しい言葉ばかりでありながら、その奥にあったものは別であった。


「三郎様は、像を捨てたつもりだった」


 観音丸は言った。


「あれは“持ち主の意思”に反応する。もう自分のものではないと見切れば、繋がりは弱くなる。だから、蔵へ放り込んだのは間違いではなかったよ」


 訥平が怪訝そうに顔を上げる。


「ならば、何故そのような危険物を、そのままに」


「公にできなかったからだよ」


 観音丸はあっさりと言った。


「もともと、筋の良くない流れ方をしたものだった。三郎様も棟品さんも、それを表へ出したくはなかった」


「では、何故あなたが取り上げなかった」


 訥平の問いに、観音丸は少しだけ首を傾げた。


「争いの元になるよ。力ずくで取り上げれば」


 その答えは実にもっともで、しかも不思議と冷たかった。


「二人とも隠していた。こちらから暴けば、郷長も保長も一度に信用が揺らぐ。そうなれば、この郷の秩序そのものが崩れる。だから、遠目に見ていたんだ」


「見ていた……」


「変事の夜も、上からね」


 観音丸は穏やかに言った。


「この郷が壊れるところまでは、見過ごせなかったけれど」


 次郎は訥平と顔を見合わせた。

 雷に打たれた棟品。延焼しなかった火。ひとつひとつが、ここへ来て別の貌を見せ始めていた。


 観音丸は木像を箱へ戻した。


「今回は、これで均衡が戻っただけだよ」


 その言い方は、災厄を鎮めた者のものというより、乱れをひとつ片づけた者のものに聞こえた。


 次郎の背後には、今も厨子の中で守り本尊が沈黙している。

 眼前には、半ば焼けた天狗の像がある。


 加護と祟り。

 救いと異形。


 それらは初めから別々のものではなく、ただ人の側が勝手にそう呼び分けているだけなのかもしれなかった。


 次郎は、長く息を吐いた。

 目の前の童行者は、変わらぬ柔らかな顔でそこに座している。

 だが、その顔の奥で何を考えているのか、今の次郎には少しも分からなかった。


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