第九話
家に帰ると、お母さんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「あら、どうしたの? 具合でも悪くなった?」
「……うん、ちょっと……頭が痛くて」
事故の後遺症でまだ体調が万全じゃないと嘘をつき、私は自分の部屋へと逃げ込んだ。
ベッドに倒れ込み、胸元に下げたルビーのネックレスをぎゅっと握りしめる。
月島くんがくれた、私の一番大切な宝物。
「……どうして……っ」
涙がポロポロと溢れて、シーツにしみ込んでいく。
(どうして……私が好きなのは月島くんだけなのに)
首筋に残る熱と、彼のあの悲しそうな目。
会いたい。
でも、今顔を見たら、あの恐怖が蘇ってしまう。
——
夕方になって、下からお母さんがドアを叩く声がした。
「百合、月島くんが鞄を届けてくれたわよ?……降りてきて顔見せたら?」
「……ごめん、今ちょっと……起き上がれなくて」
お母さんは何度も「本当に会わなくていいの?」「わざわざ来てくれたのに」と言っていたけれど、私は布団をかぶって首を振ることしかできなかった。
私はただ、静かに涙を流し続けた。
◇
百合の家に鞄を届けた帰り道、僕は一人、夕暮れの温室へと向かった。
ガラリと扉を開けると、
『——月島くん!』
パッと花が咲くような笑顔で駆け寄ってくる百合の幻影が見えた。百合のいない温室は、息が詰まるほど広くて、冷たい。
温室の奥深く——赤い果実のなる木に
僕は倒れ込むように座り込んだ。
(……僕は、何をしてしまったんだろう)
水やりを終えて準備室へ向かった、あの一瞬。
廊下の窓越しに見えた、二人。
神代と百合が、重なり合うようにキスをしているように見えた。そんなわけないのに。百合がそんなことをするはずがないのに。
頭に一気に血が上り、僕の理性は一瞬で吹き飛んでしまった。
(……ごめんね、百合)
早退した彼女のために、先生には上手く体調不良だと伝えておいた。鞄も家まで届けたけど、百合は部屋から出てきてはくれなかった。
当たり前だ。
あんな酷いことをして、嫌がる彼女を力ずくで押し込めて泣かせてしまったんだから。
もう、幸せな日々を繰り返すための「ループ」は作れない。その上、僕は僕の手で、何より大切だった百合を傷つけ、拒絶されてしまった。
眩しい笑顔で名前を呼んでくれたあの幻影には、もう二度と手が届かない。
絶望で視界が歪み、僕は赤く染まり始めた果実のなる木に背を預けたまま空虚を見つめた。
(もう終わりだ。百合に嫌われたら、僕には生きていく意味なんてない…)
——その時だった。
「——そろそろ、終わりにしようよ」
静まり返った温室に、冷ややかな声が響いた。
ハッと顔を上げると、入り口の影の中に佇む転校生——神代が、感情の欠片もない瞳で僕を見下ろしていた。




