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第八話


ここ数日、私はなんの「違和感」も感じることなく、いつも通りの日常を過ごしていた。あれほど強烈だった既視感も、胸を刺すような不安も、いつの間にか綺麗に消えている。やっぱり事故のせいで、私の頭が混乱していただけだったみたい。


時計の針は止まることなく『8時15分』を指し、教室にはいつも通りの賑やかな朝が訪れていた。時間が、当たり前のように前へと進んでいる。


(……よかった。やっぱり私の勘違いだったんだ)


胸を撫で下ろし、私は一人で資料を整理するため、静かな準備室へと向かった。

月島くんは園芸部の朝の作業で不在。一人きりの空間で棚の資料を確かめていると、背後で静かにドアが開いた。


「——手伝おうか?」


振り返ると、そこには転校生の神代くんが立っていた。


「あ、神代くん。ううん、大丈夫だよ。すぐ終わるから」

「いいよ、僕もヒマだし」


そう言って爽やかに微笑むと、神代くんは私の隣に並び、棚の上の重そうな資料箱を手際よく取ってくれた。


「これ、上の方にあって大変だったでしょ」

「あ……ありがとう! 助かっちゃった」

「どういたしまして」


神代くんは資料を私に渡すため、すっと顔を近づけて箱を差し出してくれた。ほんの少しの距離感。

——その時だった。


バンッ!!!!


激しい音とともに、準備室のドアが勢いよく開いた。


「神代……ッ!」


そこに立っていたのは、月島くんだった。

いつもの穏やかさなんて欠片もない。血の気が完全に引き、瞳の奥に見たこともない暗闇を宿した月島くんが、弾かれたように飛び込んでくる。


「お前……っ!」

「月島くん……!?」


私の制止も耳に入らない。

月島くんは神代くんの胸ぐらを掴むと、猛烈な勢いで壁へと叩きつけた。鈍い音が響き、神代くんの背中が壁に打ちつけられる。


「っ……!」


背中を激しく打ちつけた衝撃のせいで、神代くんは痛そうに顔を歪めて呻いている。


「月島くん、やめて!! お願いだから!!」


私が叫びながら駆け寄ると、月島くんはハッとしたように我に返った。そして、床に倒れ込む神代くんの襟首を強引に掴むと、そのまま廊下へと放り出すように押し出した。


「月島くん……ッ!?」


ガラガラ、とドアが閉まる。

次の瞬間——カチャリと鍵がかけられ、ドアの小窓にかかったカーテンがサッと引かれた。

静まり返る準備室。

視界が遮られ、一瞬で切り離された静かな密室。


「……月島、くん……?」


恐怖で声が震える。

振り返った月島くんの瞳には光がなく、肩を荒く上下させながら、ゆっくりと私へ歩み寄ってきた。


「月島くん、待って……落ち着いて……っ」


後ずさりする私の背中が、すぐに壁にぶつかる。逃げ場はない。

月島くんは両手を私の脇の壁につき、完全に私を閉じ込めた。そして、私の唇を見つめた。


「……百合、リップ……つけてる?」


掠れた、けれど恐ろしいほど冷たい声。


「神代のため…?」


(なにを言ってるの……?)


神代くんはただ、資料箱を取ってくれただけなのに。わけが分からず息をのむ私を、月島くんは狂気じみた眼光で見つめ返す。


「百合、誰にも渡さない…………ッ」

「……ん……っ!?」


拒絶する間もなく、強い力で顎を固定され、彼の唇が無理やり重なった。

いつかの、あの切なくて優しいキスとはまったく違う。痛いほどの力と、私を確かめるような激しい熱。


「ん……やっ……月島、く……っ!」


必死で彼の胸を押しのけようとしても、鉄のように固い腕はピクリとも動かない。

我を忘れた月島くんのキスはそのまま首筋へと落ちていき、荒い息とともに私の制服のボタンへと手が伸びる。服を脱がされそうになった瞬間、身体の奥底から強い拒絶と恐怖が溢れ出した。


「嫌……っ! やめて、月島くん!!」


ポロポロと涙が溢れ出し、私は静かに泣きじゃくった。涙で濡れた私の顔と、怯えて震える姿を見た瞬間、月島くんの手がピタリと動きを止めた。


「……あ」


我に返ったように、月島くんの瞳に光が戻る。

自分が何をしようとしていたのかを理解したように、彼の顔からすーっと血の気が引いていった。


「百合……僕……っ」


掴まれていた手が力なく離れる。

私は彼を突き飛ばすようにして脇を抜け、解錠したドアを押し開けて準備室を飛び出した。


「百合!!」


背後で彼が呼ぶ声も振り返らず、私は涙を拭いながら夢中で廊下を駆け抜けた。

首筋に残る冷たい熱と、恐怖。

私は一度も、後ろを振り返ることができなかった。


——その様子を、物陰から冷ややかな笑みを浮かべて見つめる者がいるとも知らずに。

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