第五話
午後の明るい陽が差し込む廊下。
僕——月島 朔は、少し離れた場所から百合の姿を見つめていた。
彼女が僕のことだけを見つめ、僕の作ったこの穏やかな日常で笑っていればいい。そのためなら、世界を何度書き換えたって構わない。
邪魔者は、すべて排除してきたはずだった。
——それなのに。
「百合さん! 今日の放課後、委員会の集まりよろしくね」
爽やかな声とともに、一人の男子生徒が百合に歩み寄る。二人で楽しそうに書類を見ながら会話を交わすその光景を見た瞬間、僕の全身の血がスーッと引いていく感覚がした。
(……なんで……?)
息が止まりそうになる。
過去のループで百合に慣々しく近づいてくる男は、僕がこの世界から『存在ごと消去』したはずだった。みんなの記憶からも、名簿からも消し去ったはずの人間だ。それなのに、なぜ今、当たり前のようにそこに立って百合と笑い合っている?
「うん! 最近見かけないから心配したけど、風邪だったんだね」
「ごめんごめん、今日から復帰だからさ!」
屈託のない百合の笑顔。
百合にとっては、ただの「風邪から復帰した同級生」との他愛のない会話に過ぎないのだろう。
(嘘だ……僕の書き換えが、解けている……?)
神代という理が介入したせいで、僕がコントロールしていたこの世界の法則が、ガタガタと音を立てて崩れ始めている。消したはずの記憶が、消したはずの人間が、バグのように現実に湧き出してきているんだ。
握りしめた僕の拳が、恐怖と激痛で微かに震える。
「……あ、月島くん!」
僕の視線に気づいた百合が、パッと花が咲くような笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「ごめん!そういえば今日、放課後に委員会の作業があったの忘れてて。すぐ終わるから、終わったら一緒に帰ろ?」
「……うん。……もちろん」
僕は必死で口角を上げ、いつもの「優しい月島くん」の笑みを張り付けた。
けれど、奥歯が噛みちぎれそうなほど強く噛み締められているのを、百合は知らない。
(時間が……もう、ない)
百合の記憶が戻るのも、この世界が崩壊するのも、もう時間の問題だ。
放課後、生徒会室へと向かう百合の背中を、僕は遠ざかる光を見つめるような絶望と焦燥を抱えて見送った。
僕の理想の世界が、音を立てて崩れ去っていく。二度と失いたくない。百合を、誰にも渡したくない。
――僕に残された時間は、もうあとわずかだった。
◇
委員会の作業を終えた私は、荷物を持って自分の教室へと戻った。夕日が赤く染める教室には、月島くんがぽつんと一人、私の席の近くでたたずんで私を待ってくれていた。
どこからどう見ても、いつもと変わらない穏やかな夕暮れ。けれど、私を迎える月島くんの雰囲気だけが、朝からずっとどこか違っていた。何かに追い詰められているような、けれど今にも消えてしまいそうな儚さ。
「……月島くん? なんだか元気ないけど、どうかしたの……?」
私が覗き込むように尋ねると、月島くんはハッとしたように顔を上げ、縋るような瞳で私を見つめ返した。その手はかすかに震えていて、なにかに怯えているようにみえた。
「ううん、なんでもないよ……。ねえ百合、ちょっと温室に行こうか」
「えっ……? うん、いいけど……」
迷いながらも手を取られ、私たちは昼間と同じ温室へと向かった。西日に照らされた木々が、黄金色の影を地面に落としている。風が吹き抜け、紫色のエキザカムの花が揺れた。
月島くんは足を止めると、振り向いて私をじっと見つめた。その瞳には、今まで見たこともないほど深く、甘く、そして壊れそうなほどの愛おしさが満ちている。
「月島くん……?」
私が声をかけるより早く、月島くんの手がそっと私の頬を包み込んだ。
冷たい指先。
そのまま吸い寄せられるように、私の唇に彼の唇が重なった。
「……っ」
息が止まる。
柔らかくて、少し切ない熱。
言葉もなく、ただ私の存在のすべてを確かめるような、深くて長いキスだった。
ゆっくりと顔を離した月島くんは、私の髪を慈しむように撫でると、どこか満足したような、切ない笑みを浮かべた。
(……どうして、そんな顔をするの……?)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……月島くん?」
私が尋ねると、彼は返事をする代わりに、ぎゅうっとしがみつくような力強さで私を強く抱きしめてきた。
「百合……お願いだから、僕を置いていかないで」
耳元で落ちてきたのは、今にも泣き出しそうな、すがるような低い声だった。
「ずっとここにいて。僕のそばから離れないで……」
あまりにも切実で熱っぽい懇願。
いつも穏やかな月島くんが見たこともない必死さに、私は驚きつつも、胸がキュッと痛んだ。
(私が事故にあって不安だったのかな…)
私は彼をあやすように優しく頭を撫でた。
「どうしたの?……私は、ここにいるよ」
そう呟くと、私はそっと顔を上げ、すがりついてくる月島くんのおでこに優しくキスをした。
「どこにも行かないよ。ずっと、そばにいるから」
柔らかい熱。私からの言葉と不意のキスに、月島くんの身体が跳ねるように強張った。
うつむいた彼の表情は陰になってよく見えないけれど、耳が赤くなっていた。
(ああ……やっぱり、百合を誰にも渡したくない……。誰にも渡すものか。永遠に)
百合の無垢な優しさが、月島の狂おしいほどの執着に火をつけ、その瞳の奥の暗闇をより一層深く濃くしていくのを、百合はまだ知らない。
「……ありがとう、百合」
顔を上げた月島くんは、どこか吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。
「帰ろう。……ずっと一緒に」
校門へと向かう帰り道、手を繋いで歩く月島くんの体温を感じながらも、私の胸の奥には、なぜか消えない小さな波紋が広がり続けていた。
◇
静まり返った温室の奥で、一本の木がかすかに揺れていた。枝に実った果実のひとつが、ゆっくりと赤く染まっていく。
まるで、何かを喜ぶように…。




