第三話
「なんだか今日は疲れたな、早く寝よう」
百合は自分の部屋のベッドに入り、ゆっくりと目を閉じる。
胸元のルビーのチャームが、まるで小さな心臓のようにドクンと怪しく脈打っていた。
――意識が、底のない暗闇へと落ちた。
◇
どこからか、甘く重い果実の香りが漂っていた。
中央にそびえ立つ一本の禍々しい樹木のもとで、月島 朔は一人、佇んでいた。
枝には、青みを残した果実がいくつも実っていた。その中には、昼間よりも赤く色づいたものも混じっている。
彼の指先が樹木に触れると、夜空に浮かぶ無数の風景の破片――
脳裏によぎるのは、遠い昔、百合と「初めて」会ったときの記憶。
百合と二人だけの、理想の世界。
けれど、百合に近づく他の男たちに嫉妬するたび、彼は気に入らない存在を消し、世界を何度も都合よく書き換えてきた。すべては、百合を自分の手の中に閉じ込めておくために。
「……また歪みが大きくなっているな」
静かな足音が、暗闇の奥から近づいてくる。
姿を現したのは、神代 司だった。
月島は瞬時に表情を歪め、殺気立った目で神代を睨みつけた。
「……どうしてここに入り込めた、神代」
「君が世界の理を歪めているおかげで『上』に言われておれが来たってわけ……こんなやり方、長くもつわけがない」
神代は冷徹な瞳で月島を見下ろす。
学園の生活において、神代だけは月島の意志で消すことも、操ることもできない唯一のノイズだった。
「黙れ……! 百合は渡さない。ここなら彼女は僕だけのものだ。永遠にこの世界から出すつもりはない」
「正気を失っているな、お前はまた罪を重ねるのか?その罪悪感から逃げるために、今度は彼女をこの夢に閉じ込めるつもりか?」
「失うよりはマシだ!!」
神代が静かに一歩踏み出し、二人の間の空間がバチバチと拒絶の音を立てて軋み始めた。
神代の背後に見え隠れするのは、世界の歪みを正そうとする『上』の圧倒的な気配。だが、月島の瞳に宿るのは、後戻りのできない狂おしいまでの執着だけだった。
「彼女は覚えていなくていい。僕のことだけを見て笑っていればいいんだ」
月島が木の幹に手を差し入れると、深く埋め込まれていた血のように赤い石を、ゆっくりと取り出した。まるで脈打つ心臓のように不気味な光を解き放つ。
空間にヒビが入り、夜空に浮かんでいた学園の風景たちが、ガラスの破片となってガラガラと崩れ落ちていく。
「……おまえ……! まさか、それを利用して……」
その視線の先で、赤い果実が静かに揺れていた。
「……またやり直す気か。何度巻き戻したところで、歪みは消えないぞ」
神代の呆れたような、けれどどこか切ない声が響く。
「何度だってやるさ。……百合を奪われるくらいなら、僕は永遠にこの日を繰り返す」
——カチッ。
世界の落ちる音が、重々しく暗闇に響き渡った。拒絶し合う二人の存在もろとも、視界のすべてが、深く、底の見えない暗闇へと飲み込まれていく。
光も、音も、時間さえも――。
すべてが、奈落の底へ落ちていった。
◇
「——百合。本当に、目が覚めてよかった」
頭上から降ってきたのは、低く甘い、いつもの声だった。
ハッと目を開けると、そこは校舎の窓から爽やかな朝の光が差し込む、見慣れた教室だった。
カバンを机に置いたばかりの私の前に、園芸部の月島くんが屈みこみ、ホッとしたように目元を緩めている。
「月島くん……心配かけてごめんね。私、事故の前のこと、まだあんまり思い出せなくて」
「いいんだ。君がこうしてまた目を醒ましてくれたなら、記憶なんてどうだっていい」
月島くんは細い指先で、壊れものを扱うみたいに優しく私の髪をかき分けた。
その笑顔はどこまでも穏やかで、いつもの優しい月島くんそのものだ。
「これ、復帰祝い。ずっと渡したくて」
そう言ってポケットから取り出したのは、キラリと光る小さなルビーのネックレスだった。
(……あれ? なんかこの感じ……)
妙な既視感が胸をかすめるけれど、うまく言葉にできない。
私が考えごとをしていると、
「どうしたの……?」
と、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ううん! なんでもないの!」
私は頭を振り、胸に生まれた小さな引っかかりを振り払うように笑顔を見せた。




