第二話
「あ、ああ……よろしく」
月島は血の気の引いた顔のまま、引きつった笑みを浮かべて神代の手を握り返した。
二人の手が触れ合った瞬間、バチッと静電気が弾けたような重苦しい空気が流れる。……気がしたけれど、クラスの歓声に紛れてそれはすぐに消えた。
神代くんの席は、私の廊下を挟んだ隣になった。
授業中、ふと視線を感じて横を見ると、神代くんは頬杖をつきながら真っ直ぐ私を見つめていた。探るような強い目で。
——キーンコーンカーンコーン。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、月島くんが弾かれたように立ち上がり、私の手首を掴んだ。
「百合、温室に行こう!」
「え? あ、うん。……月島くん、手、ちょっと痛いかも」
「あ……ごめん」
月島くんはハッとしたように力を緩めたが、手は離さなかった。焦ったようなその横顔に違和感を覚えつつも、私は引きずられるように校舎の裏手にある温室へと向かった。
ガラス越しに柔らかい光が差し込む温室の奥に着くと、月島くんはしゃがみ込み、小さな紫色の花を一輪、そっと摘み取った。
「これ、エキザカムっていうんだ。今日、君が学校に来たら見せようと思って…ずっとここで育ててたんだ」
「すごく綺麗……」
私が見惚れていると、月島くんはその紫色の花を私の髪に優しく挿し、そのまま頬に手を添えてきた。冷たい指先。けれどその瞳には、不安と狂おしいほどの愛おしさが揺れている。
ふと視線を温室のさらに奥へ向けると、生い茂る緑の向こうに、果実がいくつかひっそりと実っているのが見えた。青みの残る果実が、いくつか赤く色づき始め、甘い香りが漂ってくる。
「ねえ、月島くん。あの奥にある木の実、美味しそう」
私が指をさすと、月島くんはハッとしたように表情を硬くし、私の手を優しく引き戻した。
「だめだよ、イブ。あの木の実には毒があるから、絶対に食べちゃダメ」
(……イブ? 今、そう言った……?)
一瞬、聞き慣れない名前が耳に引っかかった。
けれど、聞き間違いだろうと思い直して、私はそれ以上気に留めなかった。
「残念、美味しそうなのに…」
そう言ってしゅんとなる私に、月島くんは困ったように微笑みながらお弁当箱を開けた。
「ふふ。約束してくれたら、僕の卵焼きあげるよ」
「本当? うん、約束!」
私が笑ってうなずくと、月島くんはホッとしたように安堵の息を吐き、卵焼きを箸でつまんで私の口元へ運んでくれた。甘くて優しい味が口の中に広がる。
食べ終えた私を、月島くんはどこか切ない目で見つめ直した。
「ねえ、百合。……あの転校生とは、あんまり仲良くしないで」
「え? どうして?」
「お願い。……百合は、僕だけのものだよね?」
唐突で切実な言葉に息をのんだその時、背後からガラス扉の開く音が響いた。
「へえ、綺麗な花だな」
振り返ると、いつの間にか神代がすぐ後ろに立っていた。月島くんの体が瞬時に硬直し、私を抱き寄せる腕にぎゅっと力がこもる。
「神代……何の用だ」
「別に。転校初日だからさ、校内を探検してただけだよ。……それより百合さん」
神代は月島の視線をあっさりと無視し、私に向かって優しく微笑みかけた。
「君の胸元のネックレス、綺麗だね。……まるで、何かを閉じ込めるための『鎖』みたいだ」
「え……?」
「神代、失礼だぞ! 百合、行こう」
月島くんは遮るように私の腕を強く引き、逃げるようにその場を走り去った。
——その日の放課後。
月島くんに「園芸部の用事を片付けてから下校の準備をするから、先に玄関で待っていて」と言われ、私は一人で昇降口へ向かった。
下駄箱で靴を履き替え、一人で月島くんを待っていると、後ろから足音が近づいてきた。
「あれ、百合さん。月島くんは?」
振り返ると、カバンを肩にかけた神代くんが立っていた。奇遇だなと思いながら見上げると西日に照らされた彼の笑顔は、やっぱりどこか眩しくて爽やかだ。
「月島くん、ちょっと用事があって。今待ってるところなんだ」
「ふうん。あいつ、君のことになると本当に余裕なさそうだよね」
神代くんはフッと可笑しそうに笑うと、私の隣へ歩み寄り、ひょいっと覗き込んできた。
「事故のこと、体調はもう平気? 何か思い出せないこととかあったら、僕でよければいつでも相談に乗るよ」
「あ、ありがとう。ううん、体はもうすっかり大丈夫なんだよ。ただ……」
「ただ?」
「ううん、なんでもない! 心配してくれてありがとう、神代くん」
私が少し笑ってみせると、神代くんは親しみやすい笑みを深め、そっと私の顔へと手を伸ばしてきた。
「あ、動かないで。……髪に、さっきの花びらがついてる」
「えっ」
ふわり、と距離が近くなる。神代くんの指先が私の髪に優しく触れ、小さな紫色の花びらを摘み取ってくれた。
あまりの距離の近さにドキッとして思わず固まっていると――
「……何やってるんだ、お前」
地獄の底から響くような、冷たい声が昇降口に刺さった。
驚いて振り返ると、そこにはカバンを握りしめた月島くんが立っていた。
いつも穏やかなはずの彼は、見たこともないほど冷たい顔をして私達を見つめていた。
「月島くん……!」
月島くんは迷わず大股で歩み寄ると、私の腕を強引に引き寄せて自分の背中へと隠した。
その指先は痛いくらいに私を強く掴んでいて、全身がかすかに震えているのが伝わってくる。
「神代……百合に気安く触るな」
「やだな、髪についた花を取ってあげてただけだよ。そんな目で見なくてもいいだろ?」
神代くんは手を上げて肩をすくめて見せるけれど、その瞳はどこか冷ややかに月島くんを試すように見つめている。
「行こう、百合」
「え、あ……うん。神代くん、また明日ね!」
月島くんは神代くんの言葉を無視し、私の返事も待たずに私の手を強く引っ張って昇降口を飛び出した。
「月島くん、待って、ちょっと速いよ……!」
声をかけると、月島くんはハッと立ち止まり、繋いだ手の力を緩めた。
振り向いた彼の顔からはさっきまでの冷たさが消え、揺れる瞳がまっすぐに私を見つめていた。
「……百合、ごめん……」
「ううん、大丈夫だけど……」
月島くんは伏し目がちに呟くと、今度は壊れものを包み込むように、私の手を優しく握り直した。
握られた手からは、痛いくらいに切迫した熱と、どこか切ないほどの震えが伝わってくる。
校門を抜け、夕暮れの街へ踏み出そうとした、その時だった。
(……え?)
ふと振り返った私の視界で、校舎の背景が一瞬だけ、まるで水に溶けた絵の具のように「ぐにゃり」と大きく歪んだ。
ノイズのような異音が耳元をかすめ、空の色が一瞬だけ黒く濁った気がした。
「……百合? どうしたの?」
立ち止まった私に気づき、月島くんが不安そうに顔を覗き込んでくる。
瞳を何度も瞬きさせて視界を戻すと、そこにはいつもの夕暮れの校舎と通学路が広がっていた。
「ううん……なんでもない。ちょっと目が眩んだだけみたい」
「大丈夫?……心配だから百合の家まで送っていくよ」
月島くんは心配した様子で今度は私の歩幅に合わせるように、ゆっくりと歩き始めた。
胸元のルビーのチャームが、夕日を受けてどこか怪しく、じんわりと熱を帯びているような気がした。
◇
――その瞬間。
どこか遠くで、何かが脈を打った。
一度だけ。
まるで、眠っていた何かが目を覚ましたように。




