第二十一話
不意に目を覚ますと、深い静寂の中にいた。
そこは、自分の部屋だった。
窓の外には、雲ひとつない夜空が広がっている。そこには、言葉を失うほど大きな満月と、空を覆い尽くす満天の星々が静かに瞬いていた。
「……あれ? 神代は……?」
思い出したかのように、僕は勢いよく身体を起こした。辺りを見渡す。そして——。
「……え?」
僕の隣には、百合が眠っていた。
「——っ!」
驚いて後ずさった拍子に、僕は壁に後頭部を勢いよくぶつけた。
「……痛っ!」
「……ん?」
その音に気づいたのか、百合がゆっくりと目を覚ました。眠たそうに目をこすっている。
「……どうしたの、朔?」
「……え?」
その瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
(……今、僕の名前を……?)
百合が、僕を今まで「朔」と呼んだことはなかった。状況を理解できずにいたが、百合に目を向けると長く艶やかな黒髪が月明かりに照らされている。白い肌も、伏せられた長い睫毛も、何もかもが美しかった。まるで、夜の中に咲く一輪の黒い薔薇のように。
「朔? 大丈夫?」
百合は心配そうに僕へ近づくと、そっと頬に手を添えた。その温もりに触れた瞬間、僕はようやく我に返った。
「……神代は?」
「……?」
「神代はどうなったんだ? ここは……一体……」
百合は不思議そうに僕を見つめた。そして、僕のおでこに自分の額をそっと重ねる。
「こわい夢でも見たの?」
「……夢?」
「大丈夫だよ」
百合は優しく微笑んだ。
「私は、ここにいるよ」
その言葉とともに、百合の腕が僕の身体を包み込む。その瞬間——。
ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。果実のような、甘くて懐かしい匂い。
「……っ」
その香りを感じた途端、頭の奥に何かが引っかかった。
(……神代)
確かに、さっきまで覚えていた。神代のこと。温室のこと。この世界のこと。何度も繰り返した時間のこと。
けれど——。それらが、まるで霧に包まれていく。
手を伸ばしても届かない。必死に掴もうとするほど、指の隙間からこぼれ落ちていく。
何かを忘れてはいけない。そう思った。けれど、その「何か」が何なのかさえ、もう分からなくなっていた。
「……神代?」
小さく呟いた。その名前さえ、なぜか遠いものに感じられた。
「朔?」
百合の声がする。僕は顔を上げた。そこには、優しく微笑む百合がいた。
「もう、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい心が落ち着いた。
「……百合」
「うん」
「……百合」
確かめるように、もう一度その名前を呼んだ。百合は嬉しそうに微笑んだ。
「朔、キスをして」
その瞳は、どこか妖艶で、ほんの少しだけ怖いくらいだった。以前の、太陽のように明るかった百合とは違う。けれど、その瞳から僕は目を逸らすことができなかった。
「……百合」
吸い寄せられるように、僕は彼女へ顔を近づけた。
唇が重なる。甘くて、柔らかい。まるで、熟れた果実のような甘さだった。その味を知ってしまえば、もう二度と逃れられない。そんな気がした。
百合は僕の唇に触れたまま、優しく身体を寄せてくる。僕の腕の中に、百合がいる。
けれど、ふとあの日のことが脳裏をよぎった。僕の手が震える。また、百合を傷つけてしまうかもしれない。
「…朔」
百合が僕を見上げる。
「大丈夫」
優しく微笑んだ。
「怖がらないで」
百合は僕の手を取り、そっと自分の頬へ導いた。
「……!」
その愛おしさに、僕は息を呑んだ。その瞳を見つめているうちに、張りつめていた心の箍が、ゆっくりと外れていく。
「百合……愛してる」
そう呟いた。そのまま彼女の肩を優しく抱き寄せ、深く、深く、彼女の温もりを確かめるように抱きしめ返した。
◆
やがて、胸の中の不安がすっとほどけていった。静かな時間の中で、僕はただ腕の中にいる百合の気配を感じていた。
柔らかな体温。穏やかな呼吸。確かな存在。
——僕は、やっと百合と結ばれたんだ。
その実感が、遅れて胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。しばらくして、胸元にいた百合が小さく口を開いた。
「……朔」
「ん……?」
「ずっと一緒にいたかった」
百合はそう言って、僕を見つめた。その瞳には、迷いも悲しみもなかった。ただ、静かな愛情だけがあった。
「……もう、どこにも行かないよ」
その言葉が、僕の凍りついていた心を優しく溶かしていく。ずっと欲しかった言葉。ずっと夢に見ていた、二人だけの世界。僕は百合の手を握り返した。
「うん……」
もう、何も怖くない。百合がここにいる。僕も、ここにいる。それだけでいい。
この先、何が起ころうとも。
何度転生しても、君と結ばれなかった僕たちは。
今世こそ。誰にも邪魔されない場所で、最後の恋をする。誰にも奪われることのない、二人だけの世界で。
その世界が、永遠に続くことを。
僕は、まだ知らなかった。
一完一
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




