一神代の回想一
温室の奥で、百合が一本の木を見上げていた。枝に実る赤い果実を見つめ、そっと手を伸ばす。
禁じられていると知りながら手を伸ばしてしまう危うさが、彼女にはあった。
百合は果実をひとつ摘み取り、小さく齧った。
「……ん」
味を確かめるように口を動かしたが、すぐに顔をしかめる。
「まずーい……」
ペッと吐き出した百合に、苦しむ様子も倒れる様子もなかった。神代は胸の奥で小さく息を吐く。
何も起こらなかった…
果実はまだ熟していなかったのだ。だから大丈夫だと、この程度なら問題ないと高を括っていた。
それが、すべての間違いだった。
◇
「はは、百合には敵わないな」
月島は腕で目元を隠しながら笑った。
「くだらない……」
神代は呆れたように吐き捨てた。
「僕が今まで、シナリオ通りに君を愛してきたのに」
月島の笑みが止まる。
神代には分かっていた。百合は誰にでも優しく笑っていたが、神代が用意した「幸せ」の中にいても、どこかつまらなそうだった。その瞳の奥には、いつも自分の知らない世界を覗きたがる色があった。
幾千もの時をかけ、人間へ落として罪を償わせた。
神代のそばに置いておけばこんなことにはならなかったのかもしれない。だがそれも、ただの【もしも】だ。
神代はかすかに苦笑した。
あれほど純粋だった少女が、何度生まれ変わっても、何度引き離されても、月島を選び続けた。
そして最後には、誰に強制されるでもなく、自分の意思であの果実を手に取った。
「……本当に、どうしようもないな」
罪から遠ざけたつもりだったのに、自ら堕ちることを選ぶとは。
罰するつもりでいた。けれど、本当に罰を受けていたのは、僕のほうだったのかもしれない。
◇
朝の食卓で、神代は笑いながら箸を取った。
父と母がいて、自分がいる。温かな家族の団欒。何もなかったかのように、穏やかな日常が過ぎていく。この世界に、百合のことを覚えている者は一人もいなかった。
「どうしたの?」
母に聞かれ、神代は二人のことを思い浮かべながら静かに首を振った。
「なんでもないよ。ご飯おいしいね!」
「そうでしょう? 今日はあなたの好きなものばかりよ」
母が嬉しそうに目を細める。
「うん。ありがとう」
誰も欠けていない。誰も、何も失っていない。
——そう見えるだけだ。
神代は窓の外へ視線を向けた。眩しいほどの朝の光が部屋に差し込んでいる。
この世界には、もう百合がいない。
それでも朝は来る。人々は笑い、日常は何事もなかったように続いていく。
そして神代もまた、百合のいない現実で生きていくのだ。
ただひとり、すべてを知ったまま。




