第十六話
神代くんと過ごす毎日は、どこまでも穏やかで、「違和感」のないものだった。恋人として手をつなぎ、街を歩き、笑い合う。けれど、どれだけ穏やかな温もりに包まれても、私の胸の奥に空いた冷たい穴が埋まることはなかった。学校のどこを探しても、手掛かりになるものは何ひとつとして残っていなかったからだ。
「……やっぱり、全部私の頭がおかしくなっただけなのかな」
クラス名簿にも、誰の記憶にも、「月島くん」という生徒は存在しない。彼を探せば探すほど、周囲からは心配そうな目を向けられ、私は自分の正気を疑うしかなかった。虚しさと強烈な違和感に押し潰されそうになりながら家に帰り、自室のベッドに深く腰を下ろす。
現実から逃げるように部屋の中へ視線を泳がせると、本棚の隅で静かに埃をかぶっていた、一冊の古びた絵本が目に留まった。幼い頃、すり切れるほど何度も繰り返し読んだ、大好きな絵本。
タイトルは——『月夜の森の白蛇』
おとぎ話によくある「王子様とお姫様が結ばれました」という美しいハッピーエンドが、私は昔からどうしてもしっくりこなかった。私が愛してやまなかったのは、もっと静かで、哀しく美しいお話。吸い寄せられるように指先を伸ばし、久しぶりにそのページをめくる。そこに描かれていたのは——。
◇◇◇
——昔々、深い森で迷子になったお姫様がいました。夜になり、帰る道も分からなくなって泣いていたお姫様の前に現れたのは、月明かりのように白く、美しい一匹の蛇でした。蛇はお姫様を怖がらせることなく、優しく森の出口まで案内してくれました。
『あなたとっても優しいのね。ありがとう』
それから二人は、夜になると秘密で何度も森で会うようになりました。お姫様は蛇と話す時間が好きになり、蛇もまた、お姫様のそばにいることを何よりの幸せに思うようになりました。
けれど——。
お姫様は決められた王子様と結婚せねばならず、蛇と離ればなれにされてしまいました。お姫様は蛇に会いたくて、毎晩泣きました。自由を奪われ、引き裂かれた二人。そしてまた、蛇も遠くから、お姫様の幸せを願って泣いていたのです。
-完-
◇◇◇
(……あ)
胸の奥が、焼けるように熱く締め付けられた。本当はとても優しくて、夜の秘密基地で寄り添い合い、最後は離れ離れになって遠くから泣いていた白蛇。それは、私を傷つけないように避けていた月島くんの姿と、あまりにも残酷に重なった。
「……夢なんかじゃない。私、ずっと前から知っていたんだ……っ」
ポロポロと溢れ出す涙を拭いもせず、私は夢中でページをめくった。挿絵の最後に描かれていたのは、二人が夜に身を寄せ合っていた大きな木。月光を浴びて、歪に枝を伸ばす異様な大木。その枝の張り方。地面を這う根の形。そして、あの赤い実…。私は、その姿をはっきりと知っていた。
(……あの温室の奥にある……木……)
現実の昼間には存在しないはずのものが、私の脳裏と記憶の中に、くっきりと根を張っている。絵本を強く胸に抱きしめ、私は弾かれたように自室を飛び出した。夜の静寂に呑み込まれていく学校へ向かって、暗闇を切り裂くように走り出した。




