激突
「おっつけ」とは、主に大相撲で使われる技術で、相手が差し込んできたり突っ張ってきたりした際に、自分の脇を締め、相手の腕を外側から下から上へと絞り上げて体勢を崩す技のことです。相手の攻撃力を封じ、攻守にわたって非常に重要な役割を果たします。
三月場所、五日目の朝。
午前八時半の両国国技館は、しんと静まり返っていた。
テレビ中継のカメラもまだ回っておらず、観客席には数えるほどしか人がいない。
だが、土俵の周りだけは、新弟子たちの放つ尋常ではない熱気とびん付け油の匂いで、肌がヒリつくほどに張り詰めていた。
「東、大河原。西、荒金」
呼出しの声が、静かな館内に響き渡る。
「……よし、行ってこい」
「うん、行ってきます」
荒磯親方に背中を叩かれ、轟は静かに立ち上がった。
額を全開にして後ろに撫で付けただけの無骨な頭。
196センチ、125キロの体躯が土俵に上がると、まばらな客席から「デカいな……」「あれが荒磯部屋の……」と、地鳴りのようなざわめきが起こる。
対する西側からは、180センチ、100キロ越えの荒金鉄平がのっしのっしと上がってきた。
まるで動く鉄壁だ。その鋭い視線は、正面の轟を完全に捉えて離さない。
二人が土俵の中央に歩み寄り、仕切り線に向き合う。
轟は、完全にスイッチを入れていた。
腰を深く割り、両拳を土俵に下ろす。
その瞬間、鋭い両眼が冷徹に据わった。
二人の間に言葉はない。
ただ、全身の筋肉が鋼のように硬く引き締まり、見えない覇気が陽炎のように立ち上る。
(……やはり、とんでもねえ化け物だ)
荒金の額に、冷や汗がにじむ。
だが、荒金の目はブレない。
ここで退けば、自分の24年間の人生すべてが否定される。
負けられない理由の重さが、十代のガキとは違うのだ。
張り詰めた静寂。
世界がスローモーションになる。
行司の軍配が、鮮やかに返った。
「――はっけよい!」
ドンっ!!!
国技館の天井を揺るがすような、凄まじい衝突音が炸裂した。
轟の、型も何もない、ただ本能のままの前への爆発的な一歩。
125キロの質量が弾丸となって荒金の胸に突き刺さる――はずだった。
「ぬんッ!!」
しかし、荒金は退かなかった。
轟の超怪力を予測していた荒金は、立ち合いの一瞬、驚異的な低さで轟の懐に潜り込み、左腕で轟の右脇を強烈にすくい上げた。
相撲の基本にして極意、息の詰まるような『おっつけ』である。
「が……っ!?」
轟の巨体が、わずかに浮き上がった。
これまでの相手なら、ぶつかった瞬間に消し飛んでいた。だが、荒金はビクともしない。
それどころか、轟のパワーを完璧な角度と技術でいなし、自分の推進力へと変換してきた。
「甘いぞ、大河原ぁッ!!」
荒金が低く太い咆哮を上げる。
間髪入れず、荒金は自身の体を泥臭く前へ進め、轟の胸を強烈に突き起こした。
ズズズズズッ!!!
土俵の砂が激しく飛び散る。
これまで一歩も後ろに退いたことのなかった轟の身体が、荒金の老獪な技術と泥臭い執念の前に、初めてずるずると後ろへ押し込まれていく。
「おいおい、荒金が押し込んでいるぞ……!」
「さすが実業団出身だ、素人にプロの厳しさを教えてやがる!」
土俵下で見守る他部屋の親方衆が色めき立つ。
対角の支度部屋のモニターでこの一番を見ていた御剣凱も、無言のまま画面を凝視していた。
轟の足が、土俵の円の境界線――徳俵にかかる。
あと一歩下がれば、勝負あり。
完全に荒金が仕留めた、誰もがそう確信したその瞬間。
「……っ」
轟の身体に血管が浮き出る。
(簡単には、勝たせてくれないか……分かってはいたけど!)
圧倒的な劣勢の中で、轟の脳裏を過ったのは、恐怖ではなく、痺れるような歓喜だった。
自分の規格外の力を、正面からガチリと受け止め、ねじ伏せにきてくれる本物のプロ。
その存在が、轟の内なる怪物を、さらに上の領域へと叩き起こした。
ミシミシと、轟の太ももの筋肉がきしむ。
土俵際に追い詰められた轟の丸太のような両足が、荒磯部屋で毎日泥にまみれて踏み続けてきた、あの地道な『四股』の記憶を呼び覚ます。
完璧な重心移動。
轟の身体が、土俵際で、まるで地面に根を張った大木のように、ピタリと静止した。
「な……にっ!?」
全力で押し切ろうとしていた荒金の顔が、驚愕に歪む。
体重を乗せて上から浴びせ倒そうとしているのに、目の前の大木は、ビクとも動かない。
それどころか、轟の身体から、底の知れない怪力が、下からじわじわと湧き上がってくるのを感じた。
土俵際、絶体絶命のスペースの無い中で、二人の怪物の力が完全に拮抗し、火花を散らす。
勝負は、ここからだった。
(第9話・了)




