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強者たちの前夜

前相撲の二戦目――


勝てば翌場所からのプロデビュー(新序出世)が決まる大一番を明日に控えた夜。

両国の下町にある荒磯部屋の大広間には、いつもと変わらない、温かいちゃんこ鍋の湯気が満ちていた。


「よし、轟くん、おかわり入るよ!」


琴音が、一升炊きの炊飯器から山盛りに盛った白米のどんぶりを差し出す。

明日の大一番を前にして、さぞ緊張しているかと思いきや、轟は「わあ、うまそう!」と、いつも通りのんきな顔でどんぶりを受け取り、凄まじい勢いでちゃんこをかっこんでいた。

実業団出身の荒金から突きつけられた、あの重苦しいまでの宣告。

普通の新弟子ならプレッシャーで喉も通らなくなるところだが、轟という男はどこまでも規格外。

怯えるでもなく、気負うでもなく、ただ「強い人と戦えるのが楽しみ」とでも言うように、底なしの胃袋を全力で満たしている。

そのどっしりとした佇まいは、十代とは思えないほどの大物の器を感じさせた。


「ふぅ、美味しかった。琴音さんのつくね、本当に毎日食べても飽きないですね」


「もう、明日が大事な一番だってのに、本当に緊張感がないんだから……」


琴音は呆れたように息を吐きつつも、その表情には隠しきれない信頼がにじんでいた。

半年間、この部屋で誰よりも近くで轟の努力を見てきた。

毎日の厳しい稽古で、彼の身体はただデカいだけではなく、岩のように強固なプロの肉体へと進化している。


「轟くん。荒金さんは本当に強いんだってよ。社会人のリーグでずっと修羅場をくぐってきた人だから、今までの相手みたいにはいかないと思う」


「うん、分かってる。親方さんにも言われたよ」


轟は、自分の大きくて分厚い手のひらを見つめた。

髪をビシッと後ろに撫で付け、額を全開にしたその無骨な顔つきに、すっと静かな光が宿る。


「でもね、琴音さん。俺、今までずっと、自分のこの体が周りの邪魔にならないようにって、どこか遠慮して生きてきたんだ。でも、土俵の上だけは、どれだけ全力で力を出しても誰も文句を言わない。むしろ、あの荒金さんみたいな強い人が、本気で俺を止めにきてくれる。……それが、すごく嬉しいんだ」


おっとりとした口調の奥に、静かで凄まじい闘志が滲んでいた。

ただの能天気ではない。

自分の規格外の肉体と、初めて見つけた「全力で生きられる場所」に対する、本物の覚悟がそこにはあった。


その頃、国技館近くの相撲部屋の一室。

荒金鉄平は、暗い部屋の中で一人、静かに精神を研ぎ澄ましていた。

机の上には、轟の初戦の取組映像を映したタブレットが置かれている。

画面の中で、196センチの轟が、相手の新弟子をまるで子供のようにおもちゃにして突き出す姿がループしていた。


「……大河原轟」


荒金は低く呟き、自らの丸太のような剛腕を強く握りしめた。

人生の後がない24歳。

プロの厳しさを教えるなどと大口を叩いたが、荒金の本能もまた、画面の向こうの「大河原轟」という存在に、最大級の警報を鳴らしていた。

技術も型もない、ただ純粋な大質量と本能だけの推進力。

触れれば、こちらの人生ごと粉砕されかねない圧倒的な怪物。


「ただの素人が、俺の24年を、コケにしてくれるなよ……」


明日、誰も見ていない土俵で、どちらかの進撃が止まる。

エリートの御剣が遥か上の幕下でまばゆいスポットライトを浴びる裏側で、何者でもない二人の怪物が、プロ生き残りを懸けて激突する。


荒磯部屋の夜が静かに更けていく。

轟は、琴音のちゃんこで極限まで満たされた体を横たえ、明日訪れるであろう「本気の激突」を心待ちにしながら、深く、穏やかな眠りに落ちていった。


(第8話・了)

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