春の兆し
三月、大阪。
独特の熱気が包む難波の会場には、春の訪れとともに新風を期待する歓声が満ちていた。
一月場所、新大関として挑んだ土俵。絶対王者・雷電の休場という波乱のなか、轟は大関の責任を背負い抜き、千秋楽まで優勝争いを繰り広げた。最後は関脇・御剣との激闘の末に敗れ、二場所連続優勝という偉業こそ逃したものの、メディアやファンの評価は高かった。
『新大関として申し分のない成績』『雷電不在の角界を支える新たなる柱』
街のスポーツ紙には好意的な見出しが躍り、支度部屋の周囲からも温かい声が飛ぶ。しかし、当の轟の胸中に漂っていたのは、決して満足感などではなかった。
大関の締込みを締め直し、轟は静かに息を吐き出す。周囲がどれほど称賛しようと、自分のなかにある事実はひとつだけだ。
雷電がいない土俵で、最後に勝ち残れなかった。御剣に、敗れたのだ。周囲の温かい期待が、かえって自分の青さを突きつけてくるように感じられた。
今場所も雷電の復帰は叶わない。王者が不在の土俵で、大関として何を魅せるべきか。そして、あの千秋楽の敗北から自分は何を学び、どう変わったのか。
「東、轟——」
呼び出しの声が館内に響き渡ると、割れんばかりの歓声が巻き起こった。雷電不在の寂しさを吹き飛ばすような、新大関への絶大な期待。轟はその歓声を全身で受け止めながら、ゆっくりと花道を歩み出る。
土俵に上がり、たっぷりと塩を撒く。真っ白な塩の煙の向こう側、対戦相手の姿を見据える轟の瞳には、迷いも揺らぎもなかった。
「はっけよい——!」
行司の軍配が返ると同時に、轟は低く、そして重く踏み込んだ。一月場所での敗北を経て、さらに研ぎ澄まされた立ち合い。相手の仕掛けを正面から受け止め、一切の隙を与えずに力強く寄り切る。
勝負は一瞬だった。
勝ち名乗りを受ける轟に、館内からは拍手喝采が送られる。文句なしの白星スタート。大関としての風格を存分に見せつける一番だった。
しかし、土俵を下り、花道を戻る轟の表情は崩れない。通路の陰、これから土俵へと向かう御剣の姿があった。すれ違いざま、二人の視線が短く交錯する。言葉はない。だが、双方の目に宿る熱量だけで十分だった。
(第9章/1話・了)




