戴冠
大相撲九州場所、千秋楽。
福岡国際センターのボルテージは、館内全体の空気が薄くなるほどの熱気と緊張感に包まれていた。
千秋楽の結びの一番。
十四場所連続全勝優勝を狙う東横綱・雷電と、一敗でその後を追う東関脇・轟。
この一番に雷電が勝てば、前人未到の四場所連続優勝。
対する轟が勝てば、幕内初優勝を果たすと同時に、直近三場所での勝利数が基準を満たし、師匠である荒磯親方の現役時代に並ぶ最高峰の称号――『大関昇進』が確実となる運命の一番だった。
「ひがーーしーー、雷電ーーー」
「ひがーーしーー、轟ーーー」
東西ではなく、同じ東の最高峰として名を呼ばれた二人が、ゆっくりと土俵へと足を踏み入れ、対峙する。
雷電の右膝には、昨日の御剣戦で痛めた嫌な硬さが残っていた。
だが、土俵に上がった雷電の眼光に弱さは微塵もない。横綱としての誇り、観客を魅了する相撲を見せなければならないという凄まじい覚悟が、その全身から巨大な圧力となって放たれていた。膝の不安などおくびにも出さず、横綱としての威風堂々とした佇まいで怪物・轟をねじ伏せにかかる。
対する轟もまた、一切の迷いを捨てていた。
大銀杏を結い上げた二十歳の怪物は、ただ目の前の絶対王者を打ち破ることだけに全神経を研ぎ澄ませている。
二人が手をつき、腰を落とす。
館内を包む万雷の歓声が、一瞬で静寂へと変わった。
制限時間いっぱい。
「見合って――!」
行司の軍配が返り、両者が同時に土俵を蹴った。
ドォンッ!!
館内の空気が弾けるような、凄まじいぶちかましの衝撃音。
正面衝突。轟の重戦車のような猛烈な突進を、雷電は正面から完璧に受け止めた。
「ぐ……っ!」
激しい腕の攻防。押し込まれまいと右足を踏み張り、前に圧力をかけようとする雷電。
だが、その限界を超えた踏み込みの瞬間――雷電の右膝の奥で、激痛とともに僅かな力が抜ける感覚が走った。
「――ぬううっ!」
その一瞬の隙を、怪物は絶対に見逃さなかった。
轟はさらに深くどっしりと腰を落とすと、逃げも引きもしない愚直な突き押しを、雷電の分厚い胸板へと一撃一撃叩き込んでいく。
ドスッ! ドスッ!
丸太のような突っ張りが叩き込まれるたび、あの絶対王者・雷電の巨大な体がズルリと後退する。
「行けぇぇ、轟ーーっ!」
「残れ! 残ってくれ、横綱ーーっ!」
館内から叫び声と悲鳴が入り乱れる。
土俵際へと追い詰められた雷電は、必死に腕を巻き込み、昨日の御剣戦で見せたような起死回生の小手投げを打とうと、最後の力を振り絞って体を捻った。
しかし――今の轟には、その技すら通用しない。
「うおおおあぁぁぁっ!!」
轟の腹の底からの咆哮。
強引な投げの旋風を泥臭く足腰で耐え切ると、己の持ち得るすべての馬力と体重を叩きつけるようにして、前へ、前へと雷電の胸を押し込んだ。
土俵際、絶対王者の体が空を切る。
豪快な砂煙とともに、雷電の体が土俵外へと転がり落ちた。
「勝負あった……!」
行司の力強い声とともに、軍配が東の轟を指す。
「勝負あり、轟ー」
一瞬の静寂ののち、地鳴りのような歓声が福岡国際センターを揺らした。
舞い散る座布団。立ち上がって狂喜乱舞する超満員の観客たち。
土俵中央でドッシリと腰を落とし、行司から勝ち名乗りを受ける轟。歩み寄った呼出から束になった懸賞金を受け取ると、静かに手刀を切り、深々と一礼した。
幕内初優勝。
二十歳になった若き怪物が、ついに大相撲の頂点へと王手をかけた瞬間だった。
土俵下、花道の奥で見つめていた荒磯親方は、煙草を吸う手をとめ、ただ静かに目頭を熱くさせていた。
「……大関昇進、確定だな。俺の現役時代に、ついに並びやがったか」
落ちぶれた名門と揶揄された荒磯部屋。そこから、ついに大看板が誕生したのだ。
激闘を終え、支度部屋へと戻る花道。
膝を引きずりながらも、横綱としての気品を保ったまま歩いてきた雷電と、すれ違いざまに視線が交錯した。
雷電は立ち止まると、激しい勝負を終えた穏やかな瞳で轟を見つめ、静かに声をかけた。
「……見事な相撲だったぞ、新大関」
その一言に、轟は無言のまま、深く深く頭を下げる。
プロの荒野を己の力だけで突き進んできた男。
二十歳の若さで賜杯を抱き、轟は師匠と同じ「大関」の称号を確実にした。
(第8章/ 完)




