影刺す頂
大相撲九州場所、十四日目。
西の支度部屋で、関脇・御剣はひとり静かに締め込みを締め直していた。
中日で宿命のライバル・轟に破れ、大関昇進への足踏みを余儀なくされた悔しさは、今も胸の奥で黒く燃え続けている。だが、彼の眼光に曇りはない。
「今日で決めてやる……!」
十四日目の結びの一番。御剣がぶつかるのは、ここまで全勝をひた走る東横綱・雷電だった。
もう一人の横綱の不在を理由に「独壇場」と揶揄されながらも、一人で横綱の重責を背負い続けてきた男。だが、御剣にとってそんな事情はどうでもよかった。最高峰の壁を破り、相撲界の時代を塗り替えることだけが頭にある。
大歓声に包まれ、土俵へ上がる。
対峙した横綱・雷電の放つ威圧感は、やはり凄まじかった。だが御剣は動じず、鋭い眼光で真っ直ぐに王者の佇まいを見つめ返す。
制限時間いっぱい。
「手ついて――!」
バチィンッ! と、館内に破裂音が響き渡る。
御剣の立ち合いは完璧だった。
轟との一番で見せたような上手を狙う立ち会いではなく、低く鋭い踏み込みで雷電の懐へと飛び込む。天性のセンスとスピードを乗せた両突きが、雷電の分厚い胸板を捉えた。
「――くっ!」
あの雷電の体が、一瞬揺らぐ。
すかさず御剣は左を差し、鋭い出足で前へ出た。どっと沸き立つ福岡国際センター。「金星」の二文字が、観客の脳裏をよぎる。
しかし、絶対王者の底力は伊達ではなかった。
土俵際に追い込まれながらも、雷電は上体を強引に捻り、御剣の差し手を抱え込むと、豪快な小手投げを打った。
強靭な背筋力と体幹のみで力任せに体勢をひっくり返す、まさに「横綱相撲」というべき強引な力技。
「うあぁっ!」
叩きつけられた御剣の体が砂煙を上げる。
土俵を這い、悔しさに拳で土俵を叩く御剣。
「勝負あり、東ー、雷電ー」
歓声と溜息が混じり合う館内。
全勝を守り、見事な白星を挙げた雷電に、割れんばかりの拍手が送られる。
……だが、土俵の中央で軍配を受けた雷電の表情は、どこか硬かった。
勝ち名乗りを受け、土俵を下りるその一歩。
右足の踏み出しに、ほんのわずかな「狂い」が生じていた。
(……なんだ、今の感覚は?)
花道を歩く雷電の右膝の奥で、嫌な違和感が走っていた。
御剣の猛攻を土俵際で力任せに粘り、強引に小手投げを打ったその瞬間――右膝の関節の奥で、小さく「ギチリ」と軋むような嫌な感覚が響いたのだ。
痛みはない。だが、自分の足ではないような、冷たい違和感。
(頼むぞ……明日で、千秋楽だぞ)
支度部屋へ戻る通路の影。
汗を拭う雷電に、冷や汗が吹き出す。
明日の千秋楽、自分の優勝を阻止せんと立ち塞がるのは、轟ただ一人。
満身創痍の体で、「横綱の重圧」と「膝の違和感」を抱えたまま、雷電は千秋楽の土俵へと向かわなければならなくなっていた。
(第8章 / 第4話・了)




