迷いの一手
八日目、中日。
館内の熱気は、今場所一番のピークを迎えていた。
新十両として土俵を席巻し、無傷の7連勝で勝ち越しに王手をかけた轟。
対するは、同じく初日から無敗のまま白星を重ねてきた、幕内経験もある実力派のベテラン力士だ。
全勝同士の直接対決に、大阪のファンは大歓声で沸き立っていた。
「ひがーーしーー、轟ーーー」
呼び出しの声に応じ、轟が土俵に上がる。
腰には親方から借り受けた深い紺色の化粧廻し。ザンバラ髪を揺らし、仕切り線に立つ轟の胸中には、連日の勝ち星による密やかな手応えと、昨日見た満吉の姿があった。
――自分なら、あの投げも打てるんじゃないか。
突き押しで圧倒してきた自信と、満吉が見せた「技」への興味。無意識のうちに芽生えていたわずかな慢心が、轟の研ぎ澄まされた集中力をほんの少しだけ鈍らせていた。
制限時間いっぱい。
仕切り線に拳をつける。いつも通りのぶちかましではなく、頭のどこかで「相手を崩して、投げて勝つ」という余計なイメージがチラついていた。
(ハッケヨイ――)
軍配が返り、両者が激しくぶつかり合う。
ドン、という鈍い衝撃。
いつもならそこから間髪入れずに強烈な突っ張りを叩き込み、一気に押し切るはずだった。
しかし、轟はそこで一瞬、相手の差し手を抱え込み、横へ振るような投げの動作に入ってしまった。
その一瞬の「タメ」と「軸のブレ」を、相手のベテランは見逃さなかった。
「――甘い!」
真っ向からの威力なら轟が勝っていた。しかし、慣れない投げに入ろうとして体勢が伸びきった瞬間、相手は逃さず低く深く懐へと潜り込んできた。
引きつけられ、完全に重心を崩される。
慌てて押し返そうとした時には、すでに遅かった。相手の下からの強烈な押し上げに、轟の巨体が宙に浮き、そのまま俵の外へと寄り切られた。
ドスン、と土俵下へ落ちる音。
客席から大きな歓声とどよめきが上がる。
「勝負あった……!」
土俵の上で勝ち名乗りを受けるベテランの姿を、轟は砂まみれのまま見上げていた。
己の失策だった。
自分の強みである「真っ向からの突き押し」を自ら捨て、半端に他人の真似事のような技に走った結果の完敗。
「大丈夫ですか、関取……」
控えから駆け寄ってきた満吉が、心配そうにタオルを差し出す。
そのタオルを無言で受け取りながら、轟は固く歯を食いしばった。
自分の慢心が招いた、重すぎる初黒星。
(第7章 / 第3話・了)




