現実
幕下優勝の興奮から一夜明けた、荒磯部屋。
「……すまん、轟。今のうちの部屋じゃ、お前の化粧廻しをあつらえてやるだけの金は、どうしても捻り出せん」
稽古場の隅で、荒磯親方は絞り出すようにそう言った。
長年関取が途絶え、タニマチとの経済的な繋がりなどとっくに風化して残っていない荒磯部屋。いくら新関取の誕生がめでたくとも、一本数百万円という現実的な費用の壁の前に、部屋の財政は完全に火の車だった。
申し訳なさそうに、傷ついたように視線を落とす親方の姿に、轟はそれ以上何も言えなかった。
息が詰まるような空気。
その居心地の悪さに耐えかねて、轟は何か適当な理由をつけて逃げるように外へ出た。行き先も決めぬまま、ただ両国の街を歩き、導かれるようにして駅近くのコンビニへと入った。
冷房の効いた店内で、やり場のない感情を抱えながら、何気なく雑誌棚へ視線を向けた轟の足が、ぴたりと止まった。
棚の最前列に並ぶ、発売されたばかりの雑誌。その表紙を飾っていたのは、「御剣」の力士の姿だった。
写真の中の彼は、彼のために作られた豪華な化粧廻しを当然のように腰に纏い、晴れやかな表情で堂々と収まっている。
親方に頭を下げさせることも、資金の心配をすることもない。すでに上の世界で、確固たる地位と完璧な後ろ盾を得ているその姿に、プロの世界の圧倒的な格差を突きつけられるようだった。
同じ時に入門したはずなのに、御剣の歩む道と轟の道はまったく違う。
己の足元の圧倒的な心もとなさ。轟はただ静かに、雑誌の表紙を見つめていた。
「なんだ、そんなところで突っ立って」
背後からかけられた聞き馴染みのある声に、轟が振り返る。そこに立っていたのは、若鳥だった。
若鳥は轟の視線の先にある雑誌の表紙を一瞥すると、すべてを察したように、いつになくシビアな声を投げかけた。
「……お前はもっと、タニマチを大切した方がいい。」
轟は、ただ若鳥の言葉を黙って受け止める。
「お前は番付上がるのが早いし、入門前は無名だったのもある。だけど何より、今までお前はタニマチとの交流を積極的にやってこなかっただろ。そのツケが、今ここに出てきてるんだ」
若鳥の口から告げられる、冷徹なまでの正論。プロの世界の仕組みと、己の歩んできた道のシビアな現実が、轟の胸に重く突き刺さる。
しかし、若鳥はそこで突き放すような男ではなかった。彼はフッと不敵に笑うと、轟の肩をパチンと叩いた。
「まあ、無い袖は振れねえよな。……おい、今から時間あるか? 俺の馴染みの社長とこれから飲みにいくところなんだ。お前のことはもちろん知ってる。挨拶がてら、ついてこい」
「え……」
「ぼさっとすんな。これからプロとしてやっていくんだろ。これも稽古のうちだ」
番付でこそ若鳥さんを越したが、大相撲の世界の生きた年月では到底及ばない。
最近忘れていた若鳥さんの背中は、とても大きく感じられ、轟はただ黙ってその背中を追うことしか出来なかった。
(第6章・第8話・了)




