幕下優勝
「――幕下優勝、轟」
国技館の吊り屋根に響き渡るアナウンスが、拍手に書き消されていく。土俵下に控える轟の耳に、その声はどこか遠くのもののように届いていた。
千秋楽の土俵。周囲がどれほど息を呑み、重圧に満ちた視線を送ってこようと、轟の心は凪いでいた。
立ち合いの一瞬、相手の狙いを冷静に見極め、突き放して一気に押し出す。特筆することもない、いつも通りの、危なげない白星。
だが、表彰式のために再び土俵へ上がったとき、手に渡された優勝重みは、これまでのどの白星とも違う実感を伴っていた。
(来場所から、関取だ――)
優勝証書を見つめる轟の胸の奥で、静かに、しかし熱く気合の火が灯る。
これまでの黒い廻しを締め、大部屋で雑務に追われる「養成の身」は、今日で終わりだ。次からは自分の名前が書かれた幟が立ち、個室が与えられ、給与が出る「プロ」の世界、十両に上がる。
「ここからが、本当の勝負だ」
小さく呟いた言葉は、沸き立つ館内の歓声にかき消された。
――その日の夜、千秋楽パーティー
都内のホテルの宴会場は、割れんばかりの熱気に包まれていた。
部屋の後援会が主催する、千秋楽パーティー兼、轟の幕下優勝・十両昇進祝いの席だ。
「おい、轟! 本当におめでとう!」
「いい相撲だったぞ! 来場所からは関取か、めでたい!」
見渡す限りの人、人、人。
そんな中轟は、次々と注がれるお祝いの言葉を頭を下げて受け止めていた。
土俵の上で勝つこと。それだけを考えて、ただひたすらに前だけを見て這い上がってきた。その結果がこの華やかな景色なのだと思うと、誇らしさが込み上げる。
「いやあ轟、文句なしの優勝だったな! 来場所の十両土俵入り、今から楽しみで仕方がねえよ」
「ありがとうございます。ご期待に応えられるよう、一層稽古に励みます」
生真面目に答える轟に、社長は満足そうに頷きながら、ふと思い出したようにグラスを傾けた。
「ところで轟。初日の土俵入りで締める『化粧廻し』は、もう誰につくってもらうか決めているのかい?」
「え……」
轟の動きが、ぴたりと止まった。
化粧廻し。十両以上の関取だけが身に纏うことを許される、色鮮やかな刺繍が施された、あの絢爛豪華な廻しだ。
「……いえ、まだ」
「なんだ、まだ決まってないのか? そりゃあ急がねえと。あれは職人が一本一本手作業で織り上げるんだ。デザインの打ち合わせから何から、費用だって、安く見積もっても一本数百万円は下らないからな」
これまでは、ただ目の前の相手を倒し、白星をもぎ取れば道が開けた。
だが、ここから先は違う。自分の看板を、自分の力と、そして周囲の支えを含めてプロデュースしていかなければならないのだ。
何百万円もする化粧廻しの手配、本場所用の締め込み、関取としての格式を保つための衣服。
これまで経験したことのない、圧倒的な量の「現実」が、新関取というきらびやかな言葉の裏側から一気に押し寄せてくる。
華やかなパーティーの喧騒が、急に遠くの出来事のように感じられた。
(化粧廻し……か……)
手元に残された幕下優勝の賞状の重みとは、まったく違う種類の、プロとしての重圧が、ずっしりと轟の肩にのしかかろうとしていた。
(第6章・第7話・了)




