黒鉄の意志
「東ーー、黒鉄。西ーー、轟」
呼び出しの高く鋭い声が、国技館の天井に木霊する。
ざわざわとした観客席の雑音が、土俵の上の異様な緊迫感に圧されるようにして、徐々に静まり返っていく。幕下上位、それも関取昇進の境界線であるこの一番には、独特のひりつくような空気が張り詰めていた。
東幕下筆頭のベテラン、黒鉄。
怪我で十両の座を滑り落ち、給金の出ない過酷な幕下生活の辛さを骨の髄まで知っている男だ。
ここで若手の轟を叩き落としてでも、何が何でも関取の座を奪還するという、死に物狂いの執念が、その眼から溢れ出ていた。
対する西、未だ髷すら結えない轟。
黒鉄の命を懸けたような視線を正面から泰然と受け止め、ただ静かに仕切り線へと歩み寄る。その佇まいには、恐ろしいほどの威圧感と、底知れない静寂が同居していた。
「時間です。構えて」
行司の声。二人が腰を下ろす。
制限時間一杯。黒鉄は握り締めた拳を激しく砂に擦り付け、呼吸を荒く整える。対する轟は、ただじっと相手の胸元を見据え、微動だにしない。
互いの拳が、仕切り線に下りる。
ーーはっけよいっ!
瞬間、黒鉄は人生のすべてを懸け、低く、鋭く、頭から泥臭くぶちかましにいった。轟の圧倒的な出足を止め、懐に潜り込んでまわしを引き付ける――それだけを狙った、乾坤一擲の立ち合い。
バチィィィン!!
肉体と肉体が正面から激突する、凄まじい破壊音が国技館に響き渡る。
黒鉄はうまく得意な形に持っていけない。
轟は下がらない。それどころか、激突の衝撃を正面から完全に受け止めたまま、下半身から爆発的なパワーを生み出し、両手で黒鉄の胸元を強烈に突き上げた。
「ぐっ……!」
黒鉄の顔が歪む。立ち合いを受け止められた轟だったが、組んでしまえば轟の得意な形。黒鉄が老獪な技術を繰り出す隙すら与えず、下から上へと跳ね上げるような凄まじい圧力が、ベテランの頑強な肉体を容赦なく浮かせにかかる。
「こんなところで負けてられないっ!」
黒鉄は歯を食いしばり、土俵にしがみつこうと泥臭く足を突っ張る。元十両の意地と執念。
だが、苦戦らしい苦戦はそこまでだった。
轟が一歩、深く強烈に踏み込んだ。
ザンバラ髪が大きく揺れる。下半身の軸から放たれた圧倒的な圧力が、黒鉄の死に物狂いの抵抗ごと、その肉体を正面から一気に押し潰した。
ーー勝負ありっ!
土俵際で粘ることすら許されず、黒鉄の身体は直線の軌道を描いて土俵の下へと文字通り消し飛ばされた。
ドサリ、と力なく砂乗りに転がり落ち、呆然と天井を見上げる黒鉄。
「ただいまの決まり手は、押し出し、押し出しで、轟の勝ち」
息一つ乱さず、勝ち名乗りを受ける轟が立っていた。
国技館に流れる決まり手のアナウンスが、残酷にも黒鉄の黒星を告げる。
ベテランの人生を懸けた執念すらも正面から力ずくで粉砕し、轟は、ついに十両昇進への扉を文字通りこじ開けた。
(第6章・ 第6話・了)




