誰も見ていない初土俵
のちの展開と矛盾する点がいくつかあったので、これまでの5話に少し訂正を加えました。
三月場所、開幕。
高校を卒業したばかりの大河原轟は、ついに大相撲の聖地・両国国技館の土俵に立っていた。
プロとして入門した新弟子たちが、最初に潜らなければならない登竜門――それが『前相撲』だ。
テレビ中継も始まっておらず、観客席もまばらな午前八時半。
広く、がらんとした館内に、行司の甲高い声と、新弟子たちの荒い息遣いだけが寂しく響いている。
「はっけよい――のこった!」
ドンっ! と、肉体と肉体がぶつかる鈍い音が響く。
「……ぬんっ!」
轟は一言も喋らず、ただ正面から突っ込んできた相手の体を、丸太のような両腕でガチリと受け止めた。
髪がまだ短いため髷は結えず、額を全開にして後ろに撫で付けただけの無骨な頭。
轟の規格外な巨体は、それだけで圧倒的な威圧感があった。
夏から冬にかけて学校帰りに荒磯部屋へ通い詰め、琴音のちゃんこでさらに厚みを増した肉体と、毎日何百本と踏み込んできた四股によって鍛え上げられた足腰は、他の新弟子の突進など、文字通りビクともしなかった。
いつもニコニコしている轟だが、土俵に上がると完全にスイッチが入る。
剥き出しになった鋭い両眼が、猛獣のように冷徹に据わっていた。
引き技も、いなしも使わない。
轟はただ本能のままに前へ歩を進め、驚異的な突進力だけで、相手を土俵の外へ豪快に突き出した。
「勝負ありっ!」
まばらな観客席から、パラパラと小さな拍手が起こる。
「おい、今の荒磯部屋の新人、強くないか……?」
「体格も格別だし、何より一歩も退かねえな」
館内にいる好角家たちや一部の記者たちが、静かにざわめき始めていた。
轟はすっと獰猛な気配を消すと、いつもの様子に戻り、対戦相手にペコリと一礼して土俵を降りた。
これで前相撲は白星のスタート。
誰も気づいていないところで、静かに、しかし確実に怪物が産声を上げていた。
同日――。
「――そこまでっ! 勝負ありっ!」
館内に観客も増えてきた頃。
『幕下』の土俵では、東関部屋の御剣凱が、その異次元の強さを見せつけていた。
アマチュア横綱の資格により、いきなり幕下から公式戦デビューを果たした御剣。
彼はプロの分厚い壁などものともせず、完璧に計算された低く鋭い立ち合いと、血の滲むような鍛錬で身につけた精密な技術で、並み居るベテラン力士たちを圧倒していた。
「強い! 東関部屋の御剣、今日も完璧な相撲で連勝です!」
館内は大歓声に包まれ、メディアも「令和の超新星」と御剣の話題でもちきりだった。
そんな華やかなニュースを、夕方の荒磯部屋の大広間で、轟はコロッケを頬張りながらテレビで眺めていた。
「ふーん、御剣、もうあんなところで相撲を取ってるのか。凄いんだなぁ」
能天気に感心する轟の横に、琴音が大鍋を運んできた。少し呆れたように、でもどこか誇らしげに言った。
「他人事みたいに言ってるけど、轟くんの朝の相撲だって、お父さんが『鳥肌が立った』って大絶賛してたんだからね。はい、今日の分のご飯!」
「うん、やっぱり琴音さんのちゃんこが一番力が出るよ。……今日もおいしいね!」
すぐさまテレビから目の前のちゃんこへと意識を切り替え、山盛りのご飯をかっこみ始める轟。
素人からスタートし、誰も見ていない早朝の土俵で圧倒的な力を示し始めた轟。
エリートとして、多くの観客とフラッシュの光を浴びながら頂点を目指す御剣。
交わることのない二人の怪物は、それぞれの土俵でプロとしての最初の本場所を突き進んでいく――。
(第6話・了)




