新弟子 佐藤
東京の冬は、地元・福岡のそれよりもどこか肌を刺すように冷たかった。
「……よし、これでいいな」
荒磯部屋の脱衣所の鏡の前で、僕――佐藤は、まだ馴染まない黒い稽古まわしをぎゅっと締め直した。
数ヶ月前まで、僕は普通の高校生だった。だけど、どうしても相撲の道を諦めきれず、親や周囲の反対を押し切って秋に高校を中退した。そうして、地元の福岡で開催された十一月の九州場所で、この荒磯部屋の門を叩いたのだ。
実績も何もない僕を、荒磯親方は「覚悟があるならついてこい」と受け入れてくれた。九州場所では前相撲の土俵を経験したものの、まだ右も左も分からない。東京へ移り、本格的な共同生活が始まってからは、毎日が緊張と不安の連続だった。
そんな僕の張り詰めた心を、そっと溶かしてくれた人がいる。
「佐藤くん、お疲れ様。今日も稽古、キツかったでしょう。はい、特製のちゃんこ、たくさん食べてね」
そう言って、大きなすり鉢から湯気の立つちゃんこをよそってくれたのは、部屋のマネージャーの琴音さんだった。
髪を後ろで綺麗に結び、いつも朗らかな笑顔を絶やさない彼女は、僕より少し年上だ。慣れない東京での生活や、兄弟子たちとの上下関係にドギマギしている僕を、いつも優しく気遣ってくれる。
(……可愛い人だな)
ちゃんこを口に運びながら、僕は赤くなる顔を隠すように俯いた。高校を中退して不退転の覚悟でここに来たはずなのに、琴音さんの優しい声を聞くだけで、胸の奥がトクンと跳ねてしまう。淡い恋心が芽生えるのに、時間はかからなかった。
一月場所の前、兄弟子の轟さんと満吉さんが、出稽古を兼ねて毎日山鳴部屋のトレーニングルームへ通い詰めていた時期があった。
若鳥さんも買い出しや用事で出払い、ちゃんこ場に僕と琴音さんの二人きりになる時間が、奇跡のように訪れた。
緊張で箸が震えそうになるのを必死で抑えながら、僕は気になっていたことを口にしてみた。
「あの……琴音さん。轟さんって、どんな人なんですか?」
僕が入門した時、轟さんはすでに幕下の上位にいて、放つオーラが他の人とはまるで違っていた。寡黙で、身体の密度が異常で、正直ちょっと怖いくらいだった。
僕の言葉を聞いた瞬間、琴音さんの目が、大輪の花が咲くように輝いた。
「轟くん? 轟くんはね、本当に凄いのよ!」
琴音さんはお玉を握ったまま、身を乗り出すようにして楽しそうに笑った。
「一時はね、この部屋も本当に落ちぶれちゃって、親方も元気がなくて、どうなっちゃうんだろうって心配だったの。でもね、轟くんが土俵に上がって、誰も寄せ付けないような相撲で勝ち進んでいく姿を見ていたら……ああ、この人は、荒磯部屋の新しい『希望』なんだって、心の底から思えたの。あんなに真っ直ぐ相撲と向き合える人、他にいないよ」
琴音さんはそう言うと、窓の外の、轟さんたちがいつも汗を流している稽古場の方を見つめた。
その横顔は、本当に慈しむようで、同時に一人の男の背中に自分の夢のすべてを託しているような、純粋で絶対的な信頼に満ちあふれていた。
それを見た瞬間、僕の胸の奥が、ツンと切なく痛んだ。
(ああ……なるほどな)
琴音さんの話す轟さんのエピソードには、僕が付け入る隙なんて最初から1ミリもなかった。彼女の心の中にいる轟さんは、あまりにも大きくて、圧倒的で、そして眩しすぎた。
恋と呼ぶにはあまりにも淡く、不器用な、僕の初めての失恋だった。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。楽しそうに「希望」を語る琴音さんの横顔が綺麗だったからだし、そこまで一人の女性を魅了する轟さんという先輩への、純粋な憧れが胸に湧いてきたからだ。
「……僕も、早く強くなりたいです。轟さんみたいに、部屋の看板を背負えるくらいに」
僕がポツリと言うと、琴音さんは驚いたように目を見張り、それからさっきよりもっと優しい笑顔を見せてくれた。
「うん! 佐藤くんなら絶対になれるよ。応援してるからね」
「はい!」
失恋のほろ苦い痛みをちゃんこと一緒に飲み込んで、僕は立ち上がった。
明日からは、一月場所の本番が本格的に始まる。
まだ何者でもない福岡出身の新弟子だけど、この部屋の「希望」である先輩たちの背中を追いかけて、僕は僕の土俵で、死ぬ気で黒いまわしを締め直してぶつかっていく。
(第6章 第2話・了)




