新調された鎧
一月場所(初場所)、初日。
新春の冷たい空気に包まれた東京・国技館は、独特の緊張感と熱気に満ちあふれていた。
支度部屋の重苦しい空気の中、俺はまわしを締め直し、鏡の前に立っていた。
一ヶ月前、九州場所が終わった直後の俺の身体とは、明らかに違っていた。山響部屋のマシンを死ぬ気で使い倒し、響竜関の教えを貪欲に吸い上げた成果。無駄な緩みは一切削ぎ落とし、肩から背中、 そして太ももにかけて、太く強固な「筋肉の鎧」が、圧倒的な密度で俺の身体を覆っている。
「よしっ!」
俺は深く息を吐き、静かに立ち上がった。
今場所の俺の番付は、幕下最高位付近。関取の座を掴むための、本当のサバイバルがここから始まる。
土俵へと続く薄暗い花道を歩きながら、胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。
不安じゃない。早く試したくて、身体の奥の獣が飢えたように牙を剥いているんだ。山響部屋で手に入れたこの筋肉が、本場所の土俵でどれほど駆動するのかを。
対戦相手は、関取経験もあるベテランの曲者だ。酸いも甘いも噛み分けたその目は、俺のザンバラ髪をじろりと睨みつけ、どこか冷徹な光を宿している。
「東、轟。西、――」
呼出しの声が響き、俺たちは仕切り線へと進む。
塩を掴み、土俵に撒く。白い粒が宙に舞い、砂の上に落ちる。
腰を下ろし、塵手水を切る。相手の呼吸をじっと見つめる。
ベテランならではの、あえて呼吸を外そうとする嫌らしい仕切り。だが、今の俺の心は驚くほど静かだった。ただ、響竜関のあの言葉だけが、短く脳裏をよぎる。
(ただの筋肉じゃない。大切なのは、全身の連動性)
俺は拳を土俵に下ろした。
カッと目を見開く。相手も腰を下ろす。
はっけよいっ――!
ドンッ!!!
国技館の空気を震わせる、凄まじい激突音が響いた。
俺は頭から思い切りぶちかました。新調した肉体の圧力は、自分で想定していた以上の威力を生み出し、ベテラン力士の巨体を一瞬で二歩、後退させた。
「押し出せる!」
そう確信した瞬間だった。相手の身体が、一瞬で泥のように柔らかく変化した。
俺の突進力をまともに受けず、絶妙なタイミングで強烈に腕をいなし、体を激しく開いてきたのだ。引き技だ。
「しまっ――」
前方に猛烈な勢いで体勢を崩される。これまでの俺なら、自分の体重と突進の勢いに振り回され、そのままバッタリと前に落ちるか、強引に突っ込んで自滅して土俵下に転がり落ちていただろう。
だが、今の肉体は違った。
前のめりになりかけた瞬間、俺の爪先が、土俵の砂をガチッと掴んだ。
(連動しろ……ッ!!)
脳からの指令が、一瞬で全身の筋肉を駆動させる。
足の裏から生み出された復元力が、股関節を通り、ガチガチに固めた強靭な体幹へと一気につなぎ合わさった。崩れかけたはずの巨体が、土俵際、まるで一本の太い鉄柱のようにピタリと持ちこたえる。
相手の目が、驚愕に見開かれた。その一瞬の隙を、俺は見逃さない。
崩れた体勢のまま、俺は下半身のパワーを体幹を通して一気に爆発させた。
伸び上がると同時に、相手の差し手を強引に抱え込む。
「おおおおおっ!!!」
俺は吠えた。
全身の筋肉を一本の鎖のようにつなぎ、その爆発的な連動性が噛み合った瞬間――。
(――軽いッ!?)
腕の中に抱え込んだはずの、140キロ近いベテラン力士の巨体が、恐ろしいほどあっけなくフワリと浮き上がったのだ。
力任せの強引な引き上げではない。足の裏からのエネルギーが一切のロスなく相手の重心を捉え、完全にコントロール下に置いた証拠だった。
ドスンッ!!!!
豪快無比な、豪快な投げ技。
ベテラン力士の身体が、土俵の砂の上に激しく叩きつけられた。
一瞬の静寂の後、館内に地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
「勝負あり、轟!」
行司の軍配が、俺の方を指している。
勝ち名乗りを受け、土俵を下りる俺の身体には、確かな、そして恐ろしいほどの手応えが残っていた。
土俵際で怪我をしないための鎧。それは同時に、どんな窮地からでも相手を文字通り軽々と屠る、最強の武器へと進化していたのだ。
汗の流れる胸を大きく上下させながら、俺は花道の奥を見据えた。
この身体ならもう誰にも負けない。関取の座へ向けて、怪物の快進撃が、いま最高の形で幕を開けた。
( 第1話・了)




