名門の師の目
十二月中旬が過ぎる頃。
山鳴親方は、2階の窓から1階のトレーニングルームをじっと見下ろしていた。
腕を組み、眼下の様子を観察するその視線の先には、ザンバラ髪の二人の若者がいた。
荒磯部屋の轟と、満吉だ。
「……信じられんな」
山鳴親方は、思わず低く呟いていた。
これまで本格的なウエイトトレーニングの経験がなかったという轟は、環境を与えられた途端、恐ろしいほどの才能を露わにしていた。
最新の設備、正しいフォーム、効率的な負荷――それらが噛み合った瞬間、乾いた砂が水を吸い上げるように、轟の肉体は凄まじいスピードで変化していったのだ。
扱う重量の伸び方も、筋肉の付き方も、普通の力士の数倍、いや数十倍の速さ。最新のマシンを極限まで使いこなし、日々肉体の密度を増していくその姿は、まさに怪物そのものだった。
本人たちは日々の地獄のようなキツさに必死で、自分たちの異常な成長速度に全く気づいていないだろう。だが、数々の名力士を育ててきた山鳴親方の目から見れば、それは未知の領域の覚醒だった。
また、一緒についてきている満吉もいい。轟の狂気的な背中に必死で食らいついているうちに、以前の締まりのない体つきから、驚くほどガッシリとした力士らしい頑強な身体へと変貌を遂げていた。
「あの荒磯の野郎……とんでもない原石を見せつけやがって」
山鳴親方はフッと口元を緩め、窓から目を離した。
◇
そして、年が明け――一月場所(初場所)の初日。
山鳴親方は、土俵の下、審判衆として一番近くであの二人の初日の土俵をじっと見つめていた。
まず土俵に上がったのは、序ノ口の満吉だ。
山鳴親方の目から見ても、今日の満吉の身体の軸は、これまでの場所とは明らかに違っていた。
立ち合い、相手の強烈なぶちかましを、鍛え上げた頑強な下半身でガッチリと受け止める。
――ブレない。
これまで土俵際で脆く苦戦していたのが嘘のように、満吉は低く、重く構え、そのまま一歩も退かずに一気の前押しで相手を土俵の外へと追いやった。
泥臭く、しかし圧倒的な安定感での白星。
他の親方衆もは「ほう」と小さく顎を引いていた。
ここ数ヶ月の成果は、確実にその肉体に宿っていた。
そして、幕下上位の土俵。ついに轟の番がきた。
相手は、関取経験もあるベテランの曲者。
立ち合い、頭から突っ込んだ轟だったが、次の瞬間、相手の激しい引き技に体勢を大きく崩されかけた。
以前の轟なら、そのままバッタリと前に落ちるか、強引に突っ込んで自滅していただろう。
だが、山鳴親方の前に映る轟の肉体は、そこから信じられないフィジカルを見せた。
ブレない強靭な体幹と、爆発的なパワーを秘めた下半身。土俵際にしがみついた瞬間、響竜から叩き込まれた股関節の使い方そのままに、足の裏から生み出された凄まじい連動性が、轟の巨体を一瞬で支え直す。
「おおおおおっ!!」
崩れた体勢から強引に相手の腕を抱え込むと、全身の筋肉のすべてを連動させ、ベテラン力士の巨体を宙に躍らせた。
豪快無比な、上手投げ――!
叩きつけられた相手の背中が、土俵の砂を激しく弾いた。
館内に、歓声が響き渡る。
土俵際で怪我をしないための鎧。それは同時に、どんな体勢からでも相手を破壊できる、最強の武器へと進化していたのだ。
「大したもんだ」
土俵を見つめる山鳴親方の脳裏に、あの十二月中旬の夜の光景が、鮮やかによみがえっていた。
畳に両手を突き、「頼む、山鳴。あいつらの環境を、作ってやりたいんだ」と頭を下げた荒磯親方。
「頭を上げろ」と言っても動かなかったあの頑固な男が、あの時、最後に浮かべた、今までに見たこともないほど必死で、そして弟子への誇りに満ちあふれたあの目――。
そして、あの夜、荒磯が最後に放った『あの言葉』が、今も山鳴親方の耳の奥に残って離れない。
(お前があそこまで言うだけのことはあるな、荒磯)
山鳴親方は不敵に目を細め、静かに歩き出した。
師匠の誇りをその身に宿した怪物の快進撃が、いま、ここから始まる――。
(第55話・了)




