山鳴、再び
冷たい冬風が吹く下町の道を、ジャージ姿の轟と満吉がのそのそと歩いていく。
荒磯部屋の窓から、そんな二人の後ろ姿をじっと見つめていた男が一人。
――荒磯親方だ。
親方は静かに腕を組んで佇んでいたが、やがて何かを決意したように踵を返した。
クローゼットから取り出したのは、普段は滅多に着ない、仕立ての良い上質な着物と羽織。
行き先は、かつて強豪だった荒磯部屋を彷彿とするような大きな建物。外にいても力士たちのぶつかり合う音が聞こえてくる――山鳴部屋だ。
先月の九州場所で圧倒的な優勝を果たした雷電をはじめ、多くの関取を擁する、今角界で1番注目されている部屋だ。
◇
「おお、荒磯。わざわざ足を運んでくれるとはな」
奥の応接間で出迎えたのは、山鳴親方。前回の出稽古の打診に来た以来だった。
「九州場所前の出稽古じゃ、お前のところの轟が良い刺激をくれたよ。……で、今日は改まって、どうしたんだ?」
荒磯親方は出された茶には目もくれず、正面から山鳴親方の目を真っ直ぐに見据えた。
「山鳴。……無茶を承知で、頼みがある」
ゴクリ、と張り詰める空気。
「うちの轟と満吉を、一月場所までの間、お前のところのトレーニングルームに受け入れて、器具を使わせてやってくれないか」
その言葉が出た瞬間、山鳴親方は驚いたように目を見張り、それから重々しく腕を組んで、険しい表情で深く考え込んだ。
「……荒磯、お前の頼みとあっちゃあ、無下に突っ返したくはない。だがな」
山鳴親方の声は、冷徹な組織の長のそれだった。
「出稽古で土俵を貸すのとは訳が違う。あそこは、うちの若い衆や雷電たちが毎日死に物狂いで体を追い込むための場所だ。他部屋の、それもまだザンバラ髪の幕下と序ノ口の弟子を日常的に出入りさせるとなるとな……。お前だって、親方なんだ、わかるだろ?」
ぐうの音も出ない。
親方同士の信頼関係とは別次元の、組織を守るための真っ当な応え。
「……分かっている。そちらの部屋の力士に迷惑をかけるようなことは絶対にさせん。」
荒磯親方はそう言うと、静かに立つ。
そして――現役時代から知っているあのプライドの高い荒磯親方が両手をついて頭を下げる。
「頼む、山鳴。この通りだ。……あいつらに、上を目指せる環境を作ってやりたいんだ」
「……荒磯、お前……」
あのプライドの塊のような荒磯が、弟子のためにここまで頭を下げている。山鳴親方は小さく息を呑んだ。
二人の間に流れる、重苦しい沈黙。
応接間の古い掛け時計が、チクタクとただ冷徹に音を刻む。
◇
――そして、その夜。
何も知らずに部屋でちゃんこを突っついていた轟と満吉の前に、親方がドカリと座り込んだ。
「お前ら、明日から山鳴部屋へ行け」
「「え……?」」
「あそこのトレーニングルームを間借りしてやる。雷電たちの邪魔にならねえように、しっかり使わせてもらえ。」
「「えっ……!? 山鳴部屋の……!?」」
驚愕のあまり、轟と満吉は手に持っていた箸を完全に静止させた。
あの、超名門部屋のことだ、 最新設備がこれでもかと揃っているのだろう。
「ほんとですか親方!?」「あの市民体育館とは違う、本格的なジムってことだよな!?」
二人の顔が一気に輝く。
「順番待ちしなくていいんだな!」「プレートの重さも限界なしだ!」
「おう、好きなだけガチガチ付け足して潰れるまで追い込めるぞ!」
「よっしゃあ! モチベ上がってきたーーー!!」
「おい、飯の途中で騒ぐんじゃねえ!」とはしゃぐ満吉たちに怒るが、二人の興奮は収まらない。
明日からのトレーニングが楽しみで、いつもよひちゃんこを食べるスピードも速い。
なぜ山鳴親方が器具を使わせてくれるのか。
そんなことなど知る由もない二人のザンバラ髪は、ただただ手に入れた最高の環境に歓喜していた。
(第53話・了)




