トレーニング開始
――もっとデカくなれ!
荒磯親方のあの熱い言葉に胸を躍らせたのも束の間。
翌朝、俺と満吉が部屋の稽古場の奥にある物置小屋を開けた瞬間、その幻想は音を立てて崩れ去った。
「よーし、ガッツリ追い込むぞ!」
そう息巻いて引き戸を開けた俺たちは、しかし、一瞬で言葉を失った。
そこに転がっていたのは――
錆びついて赤茶けたバーベル。
表面の革がベロリと破れて、無惨に黄色いスポンジが剥き出しになったベンチ台。
ちょっと手を置くだけで「キコキコ」と不穏な悲鳴をあげる、いつの時代から放置されているかも分からない壊れかけの骨董品だった。
「……なぁ轟。これ、俺たちがベンチプレスやったら、台ごと真っ二つに折れそうなんだけど」
満吉が引きつった顔で呟く。
試しに俺がバーを持ち上げてみると、パラパラと錆びた鉄粉が床に落ちた。おまけにプレートを固定する留め具すら噛み合わない。
これでは使い物にならない。
これが、経営難にあえぐ荒磯部屋の冷酷な現状だった。
親方があの夜、神妙な顔でそれ以上何も言い出せなかった理由が今になってよく分かった。
あのおっさん、不器用なプライドが邪魔して言えなかったんだな……!
「どうする、轟。新品買う金なんて、俺たちにはないぞ」
「確かになぁ……」
「あ、いや、待てよ。ここから歩いて十分くらいのところに、市民体育館があったはずだ」
頭を抱える満吉に、俺は思いつきを提案した。
あそこのトレーニング室なら、誰でも格安で使える。
俺たちはポケットに小銭を突っ込み、ジャージ姿のまま冬の冷たい風が吹く街へと飛び出した。
◇
「あ、あの、次使ってもいいですか……?」
受付の職員に二度見されつつ、一回数百円の利用券で潜入した市民体育館のトレーニング室。
日課の運動に来ている地域のおじいちゃんや、地元の筋トレマニアたちでいっぱいだった。
そこにザンバラ髪で130キロ超えの俺と、100キロ超えの満吉がのっそりと入っていったのだから、場内の視線を釘付けにしたのは言うまでもない。
しかし、満吉が恐る恐る声をかけると、ベンチプレスを終えた常連のおじいちゃんは快く席を譲ってくれた。
「おう、いいよ! お相撲さんかい? 頑張りなよ!」
そこからの時間は、妙に温かいものだった。
俺たちが規格外の重量のプレートをガチガチと付け足していくたびに、周囲の筋トレマニアたちが「おお……」と目を輝かせる。
インターバル中には「どこの部屋の力士さんなの?」「こないだの場所観たよ」とファンサを求められ、「相撲の立ち合いなら、こっちのスクワットの方が効くよ」なんてベテランの常連さんがアドバイスをくれることもあった。
一般の利用者たちと笑顔で交流し、汗を流す。
それはそれで、間違いなく心地いい一週間だった。
だが――受付の人にも顔を覚えられてきた頃。
俺たちの焦りは、ついに限界を突破した。
「……はぁ。今日も半分くらい、待ち時間だったな」
トレーニング室からの帰り道、寒空の下をのそのそと歩きながら、満吉がため息をついた。
夕暮れの冷たい風が、汗の引いた身体を容赦なく冷やす。効率が悪すぎる。
市民体育館のトレーニング室は、あくまで一般人の健康増進のための場所だ。
ベンチ台もスクワットラックも、一つずつしかない。俺たちが一セット終えるたびに、後ろには他のおじいちゃんや会社帰りの人たちが列を作ってしまうのだ。
「譲り合うのは当然だし、みんな良い人だけど……これじゃ、限界まで筋肉を追い込み切れない」
俺は自分の手のひらを見つめた。
一分一秒を切り詰めて、肉体を強化しなければならないこの貴重な時期。
公共施設のルールに縛られ、他のお客さんに気を遣いながら順番を待つ時間は、今の俺たちにはあまりにも長すぎた。
「器具の重さも、轟には足りなくなってきた。……ここでは、限界なんじゃないかな?」
満吉の言葉に、俺はただ黙って頷くしかなかった。
時間は容赦なく進んでいく。12月下旬の番付発表まで後少しだ。
手に入れたい最強の筋肉の鎧は、想像以上に険しく、物理的な壁となって俺たちの前に立ちはだかっていた。
( 第52話・了)




