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荒磯部屋を去った男

十一月場所(九州場所)が閉幕し、荒磯部屋の面々が東京の部屋へと帰京した、11月下旬。


次の初場所(一月場所)の新番付が発表される12月下旬まで、およそ1ヶ月。

まだ番付表の上では、俺の階級は変わっていない。

だが、7戦全勝で一足先に関取(十両)への切符を掴んだ御剣が、来場所から白い稽古まわしを締め、付き人を従える身分になることは確定していた。


一足先に、違う世界へ行ってしまったライバル。

その現実に対する焦りから、俺は帰京早々の稽古場で、自分の赤く腫れ上がった手のひらを固く握りしめ、ただ砂を睨みつけていた。


「焦ってんな、轟」


声をかけてきたのは、部屋の頼れる先輩、金剛山さんだった。


「金剛山さん……。俺は、今のままの相撲で、本当にあいつに追いつけるんでしょうか」


「轟、お前に一つ言っておく。幕下の上位から先はな、相手が強いのは当たり前だ。そっから先はなぁ……」


金剛山さんは、自分のテーピングだらけの膝をぽんぽんと叩きながら、真剣な眼光を俺に向けた。


「どんなにセンスがあっても、でかい怪我をしたら一瞬でどん底まで落ちる。それがこの世界だ。お前は頭から突っ込むが、今のままだと、自分の重さと相手の圧力に、いつか骨や関節が悲鳴をあげるぞ。」


金剛山さんの言葉には、言葉では言い表せない実体験の重みがあった。


「体をデカくしろ。筋肉の鎧をまとうんだ。体がデカければ、それだけで怪我をしにくくなる。お前のその狂暴な相撲に耐えられる、壊れない頑丈な身体を作るんだ。番付発表までのこの1ヶ月、お前はどう動く?」


怪我をしないための、筋肉の鎧。

そして、新番付が発表されるまでの、この貴重な潜伏期間。

金剛山さんの言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。1日だって無駄にはできない。


その日の夜。


「美味いちゃんこを食わせる店がある」と、親方に突然連れ出され、俺は下町の路地裏にある小さな店へと向かった。


『ちゃんこ 荒馬』


新しくかかったばかりの清潔な暖簾をくぐると、出汁のいい匂いとともに、体格の良い、だけどどこか穏やかな顔をした若い店主が姿を現した。


「いらっしゃい……って、親方! それに、お前は、轟か……」


店主は目を見開き、それからどこか懐かしそうに、苦笑いを浮かべた。

元・荒磯部屋の力士、四股名は「荒馬」。


「本当に強くなったな、轟。九州場所、仕込みをしながらネットの中継でずっと観てたぞ。」


荒馬さんは、俺が体験入門に来たあの日、土俵下で俺の理不尽なまでの才能を目の当たりにし、「こいつは本物の怪物だ。こんな化け物が上がってくる世界で、俺みたいな凡人がこれ以上泥をすすっても上には行けない」と、相撲の道を諦めて引退した男だった。


親方から初めて聞かされるその話に俺は言葉を失った。

知らなかった。俺は、自分の知らないところで、一人の人間の夢をへし折っていたんだ。その頃の俺は相撲の魅力に気づいて、兄弟子が辞めようとあまり気にしていなかった。もしくは、轟に気を使わせないように親方たちが言わないようにしていたのかもしれない。


運ばれてきた特製の塩ちゃんこは、驚くほど美味かった。

だけど、罪悪感で喉が拒絶しそうになる。

そんな俺の様子を見て、荒馬さんは優しく笑った。


「変な顔すんなよ、轟。俺は自分の限界を知って、ここで新しい人生を始められて、いま最高に幸せなんだ。だけどな……」


荒馬さんの目が、一瞬だけ、かつて土俵にすべてを賭けていた力士の鋭さに戻った。


「俺の心を一瞬で折ったお前が、幕下ごときでウロウロしてたり、怪我なんかで呆気なく消えたりしたら、俺は絶対に許さねえぞ。俺たちの分まで、圧倒的な怪物になって上へ行け。そのためなら、いくらでも美味いもん食わせてやる」


器に並ぶ、高タンパクで肉厚なつくねと、荒馬さんの想い。

それを俺は、涙を堪えながら、がむしゃらに口へと押し込んだ。

店を出て、夜風に吹かれながら、俺は親方の前に立ち塞がった。


「親方。俺に、ウエイトトレーニングをさせてください。金剛山さんに言われました、怪我をしない鎧が必要だって。荒馬さんの想いも背負いました。12月下旬の番付発表までのこの1ヶ月、死ぬ気で体を叩き直します。俺、怪我をしない、誰も追いつけない、本物の怪物になります」


荒磯親方はバスタオルを首にかけ直し、俺のザンバラ髪をじろりと見つめると、フッと不敵に笑った。


「いいツラになったじゃねえか、バカ野郎。おもしろい、そのでかい体をもっとでかくして幕下連中なんて蹴散らしてしまえ!」


去った男の願いを胸に、番付発表までのリミットに向け、轟の肉体改造が始まる。


(第51話・了)

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