始まりの砂、頂点の空 (満吉視点)
千秋楽の朝は、ひときわ冷え込みが厳しかった。
まだ午前八時半。福岡国際センターの館内は照明も半分ほどしか灯っておらず、広い観客席は文字通りガラガラで、静まり返っている。
パチン、パチンと、土俵の下で自分のまわしを叩く音が、静かな館内に寂しく響いた。
「……よし」
俺、満吉は、大きく一つ息を吐いた。
同期の轟は幕下の上位で、すでに5勝2敗。関取(十両)の背中が見えるところまで一気に駆け上がっている。
対する俺は、序ノ口の土俵でここまで3勝3敗。すでに三つの黒星を喫し、もう後がない。
今日勝てば勝ち越し、負ければ負け越し。力士としての意地を刻めるかどうかの、崖っぷちの千秋楽、運命の7番目だった。
支度部屋の隅で、新弟子の佐藤が荷物の整理をしながら、ちらちらとこちらを見ていた。坊主頭のあいつは、まだ自分の取組すら経験していない。ただ部屋の先輩として、いつも俺を頼ってくる。
(あいつが入ってきてから、まだ半月だ。今場所すらまだ取ってない)
分かっている。それなのに、胸の奥がチクリと痛んだ。
来場所、佐藤が初土俵を踏む。もし俺がここで負け越して番付を落とせば、いずれ同じ番付で肩を並べる日が来るかもしれない。今は「先輩」として頼られているこの立場が、いつまで続くか分からない。
轟みたいに、誰もが黙るような圧倒的な才能なんてない。後輩にまで追い抜かれるかもしれない、ちっぽけな自分。
だけど、俺だって、この博多の赤茶けた砂を毎日毎日、這いつくばって舐めてきたんだ。
『東――、満吉――。西――、若鳥山――』
呼び出しの声に背中を押され、俺は土俵へ上がった。
ただ仕切り線に向かい合い、拳を下ろす。
観客の歓声はない。だけど、花道の奥の薄暗闇から、轟が俺の姿をじっと見つめているのが分かった。言葉はなくても、その眼光が「負けんな」と言っている気がした。
――はっけよい!
「のこった!」
立ち合い、俺はがむしゃらに頭から当たった。
相手の若鳥山は、俺より二回りも体が大きい。ドンと弾き返されそうになるのを、必死に足の裏で砂を掴んで堪える。
「うおおお!」
格好なんて気にしていられない。両手をがむしゃらに前に出し、相手の胸を泥臭く押し続けた。一歩、また一歩と、砂を噛み締めるように足を前に進める。
通用しろ、俺の突っ張り。毎日轟にぶつかって磨いてきた、この泥臭い相撲だ――!
だが、若鳥山の腰は重かった。
俺が遮二無二前に出たその一瞬の隙を突かれ、強烈な左のおっつけで体勢を崩される。あっと気付いたときには、視界が大きく傾いていた。
「上手投げ、若鳥山の勝ち!」
気がつけば、俺の体は土俵の下の砂の上に転がっていた。
『勝負あり! 若鳥山の上手投げ! 満吉、健闘及ばず、千秋楽の一番を落としました。今場所は3勝4敗、惜しくも負け越しとなります……』
館内は静かなままだ。
土俵を見上げて一礼し、花道へと戻る足取りは、鉛のように重かった。
待っていた轟が俺の前に立ったが、俺は轟の顔を見ることができなかった。ポタポタと、自分の悔し涙が、博多の赤茶けた砂の上に落ちていく。
「……クソ、クソ……! あと一勝だったのに……!」
「満吉」
轟が俺の肩を、何も言わずに強く、ガシッと掴んだ。
自分の小さく腫れ上がった手のひらを見つめる。ザンバラ髪すらまだ短い。負け越しだ。来場所はまた番付のさらに下へと落とされる。
支度部屋に戻ると、荷物の整理を終えた佐藤が、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「満吉さん……お疲れ様でした」
何も言えずにいる佐藤の頭を、俺は乱暴に撫でた。
「……お前は、来場所な。俺の分まで、ちゃんと勝てよ」
口にしてから、自分でも驚いた。後輩に抜かれる恐怖はまだ消えていない。だけど、この悔しさが、俺の血肉になるんだと、涙を拭って前を睨みつけた。
――その日の夕方
午後五時半。館内は朝の静寂が嘘のように、超満員の観客の熱気と大歓声で割れんばかりに揺れていた。
幕内結びの一番。
荒磯部屋のテレビの前で、俺と轟、そして荒磯親方は、固唾を呑んで画面を見つめていた。
土俵の上に立つのは、角界の偉大な看板であり、この世界の頂点に君臨する大関・雷電。
今場所、中盤で痛恨の一敗を喫した雷電だったが、そこから他部屋の横綱・大関陣を次々と圧倒的な力でなぎ倒し、今日勝てば幕内最高優勝が決まる大一番だった。
結びの静寂の中、雷電が仕切り線にどっしりと腰を下ろす。
その背中は、朝、俺が負け倒したどの力士よりも大きく、圧倒的な威厳に満ちていた。
――はっけよい!
ドンッ!!!!
凄まじい地鳴りのような衝撃音が、テレビのスピーカーを通して支度部屋まで響いてきた。
立ち合い、両者一歩も退かぬ正面からの真っ向勝負。相手の巨漢関取が魂を乗せた強烈なぶちかましを見せるが、雷電の強靭な肉体は微動だにしない。
それどころか、雷電は真っ直ぐに下から相手の強烈な突きを跳ね返すと、そのまま自慢の怪力でまわしを引き付け、一歩も退かずに一気呵成に寄り切った。
「軍配は雷電!!雷電、二場所連続、通算五度目の幕内最高優勝です!」
ドォォォォ!!!
館内から地鳴りのような大歓声が沸き起こり、座布団が宙を舞う。
画面の向こうで、優勝インタビューに答える雷電の姿は、砂まみれでありながら、世界の頂点に立つ男の後光が差しているかのようだった。
「すげえ……これが、大関……これが、本物の相撲なんだ……」
俺は涙の乾いた目で、ただ画面を見つめていた。負け越してどん底にいる俺の胸に、その正面から堂々と勝ち切る輝きが、痛いほど突き刺さる。
横を見ると、轟が拳を血が出るほど強く握りしめ、目をギラギラと輝かせてモニターを睨みつけていた。
「満吉、見たか。あれが、俺たちが目指す、本当の頂点だ」
「……おう!」
荒磯親方が、俺たちのザンバラ髪を両手でガシガシと力任せに揺らし、不敵に笑った。
「ガキども、よおく目に焼き付けとけ。あれが雷電の相撲だ。負け越して泣いてる暇があるなら、明日からまた砂にまみれやがれ」
「「はい!!」」
部屋の隅では、佐藤が目を丸くして、初めて見る本場所の熱気にただただ圧倒されていた。
来場所、あの少年も、この地獄のような世界の入り口に立つ。
朝一番、ガラガラの館内で満吉が味わった、泥の中の悔しい負け越し(3勝4敗)。
夕暮れ、超満員の大歓声の中で雷電が正面から掴み取った、圧倒的な頂点の栄華。
この大相撲という巨大な世界の底から上までをすべて心に刻みつけ、荒磯部屋の熱い九州場所が、ここに幕を閉じた。
(九州場所編第10話・完)




