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ザンバラ髪の千秋楽

御剣に敗れた十三日目の夜、荒磯部屋の宿舎は静かだった。

いつもなら負けた後に荒れる轟が、ただ黙々と、自分の手のひらについた砂を洗い流していたからだ。物言いでもつれ合い、あと一歩まで追い詰めたあの感覚。悔しさは骨の髄まで染み渡っている。だが、不思議と心は凪いでいた。


「轟、うどん、ここに置いとくからね」


琴音ちゃんが、湯気の立つお椀をそっと机に置いた。彼女の髪に挿された桜色のかんざしが、優しく灯る電球の光を受けて静かに揺れている。


「……おう、ありがとう」


「明後日、最後の相撲でしょ。みんな応援してるから」


彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺は小さく頷いた。

綺麗に勝つ必要なんてない。泥を這いつくばってでも、前に出る。それだけだ。

そして迎えた、千秋楽。

今場所の幕下上位の取組のなかでも、俺の最終戦(七戦目)は比較的早い時間帯に組まれていた。

二番前に支度部屋を出て、薄暗い花道の奥で出番を待つ。自分でジャージを畳み、黒いまわしをパチンと叩く。付き人なんていない。自分の足だけで土俵へ向かう、それが今の俺の現在地だ。


一番前の相撲が始まり、俺は花道を抜けて、まばゆい照明が照らす福岡国際センターの館内へと足を踏み入れた。


土俵下の座布団に深く腰を下ろす。

赤茶けた砂の匂い。館内を埋め尽くす観客の地鳴り。

数メートル先、溜席のいつもの場所に立つ琴音ちゃんの姿が見えた。法被をまとい、祈るように両手を胸の前で合わせている。


『東――, 轟――。西――, 大岩――』


呼び出しの声が響く。

俺はゆっくりと立ち上がり、土俵の砂を踏みしめて上がった。


相手の大岩は、十両から落ちてきて意地でも関取に返り咲こうとしている、体重160キロのベテラン巨漢力士だ。その顔には、泥水をすすってきた男の執念が刻まれている。


仕切り線に向かい合う。ただ、無言のまま腰を下ろし、呼吸を合わせる。


大岩のぎらついた眼光が、俺のザンバラ髪を睨みつける。声なき圧力が、土俵の砂を通じて伝わってくる。


だが、今の俺の胸の奥には、荒磯親方の言葉が、そして御剣と肌を合わせたあの熱が、消えずに燃えたぎっていた。


行司がゆっくりと軍配を返した。

時間いっぱい。

俺は拳を固く砂へと下ろした。


――はっけよい!


「のこった!」


ドンッ!!!


重く鈍い衝突音が響き渡った。俺は頭から、迷わず大岩の分厚い胸へとぶち当たった。

大岩が巨体を生かして上から強烈に押し潰そうとしてくる。首に強烈な負荷がかかり、足元が一瞬ぐらついた。


だが、今の俺の足腰は、あの地獄を経験してさらに強靭に砂を掴んでいた。


(まだだ……押し出せえええ!)


不格好に上体を起こされながらも、俺は泥臭く下から大岩の脇の下へと手をあてがい、狂暴に足を一歩、また一歩と進めた。顎が跳ね上がろうが関係ない。ただ、飢えた獣のように前に出続ける。


「おおおおお!」


館内が大歓声に揺れる中、俺の執念の突き押しが、160キロの巨体をじりじりと土俵際へと追い詰めていく。大岩が必死に堪えようと体を入替ようとした瞬間、俺はさらに低く踏み込み、その胸を泥臭く押し切った。


「押し出し、轟の勝ち!」


『勝負あり! 轟、千秋楽を見事な白星で飾りました! 今場所を5勝2敗という堂々たる成績で締めくくりました!』


割れんばかりの拍手の中、俺は土俵の上で深く一礼した。

花道へと戻る途中、溜席の琴音ちゃんと目が合った。彼女は涙をボロボロと流しながら、本当に嬉しそうに、何度も何度も小さく頷いていた。


――しかし、俺の九州場所は、ここでは終わらない。

支度部屋に戻り、まわしを解いて汗を拭った俺は、部屋の古いモニターの前に立っていた。



時間は進み、いよいよ幕下の本当の結び、今場所のハイライトが画面に映し出されている。

西筆頭・御剣の、7戦全勝と幕下優勝がかかった大一番だ。


館内が最高の熱気に包まれる中、画面の向こうの御剣は、やはり一分の隙もない冷徹な構えで仕切り線に腰を下ろした。


制限時間いっぱい。軍配が返る。


――はっけよい!


立ち合い一瞬。御剣の電撃のような左のおっつけが相手のあばらを捉え、流れるような上手投げで、相手をまたしても完璧に土俵へと這わせた。


「勝負あり、御剣の勝ち! 御剣、7戦全勝で幕下優勝決定!」


テレビのスピーカーから、割れんばかりの歓声とカメラのフラッシュの音が響いてくる。

来場所の十両昇進を誰もが祝福する中、画面の中のあの男は、花道を引き揚げながらも、一度も笑わなかった。


その冷徹な瞳が、まるでモニターのこちら側にいる俺を真っ直ぐに見据えているかのように思えた。

まだ、終わっていない。御剣もまた、俺に完璧な相撲を泥塗りにされたあの感触を、その肌に生々しく記憶しているはずだった。


「……ハッ、一足先に行かれちまったな」


背後から、腕を組んだ荒磯親方がモニターを見上げながらフッと不敵な笑みを浮かべた。


「しゃす。でも……次は俺が上がります」


俺は自分の赤く腫れ上がった手のひらを、これまで以上に固く、強く握りしめた。


「おう。5勝2敗だ、来場所は幕下の上位、いよいよ関取の首が見える位置まで番付が上がるぞ。すぐにあの天才の背中、引きずり下ろしに行くぞ」


親方は俺の背中を、バチンと壊れるほどの力で叩いた。


「はい!」


全勝街道は途絶えた。完璧な秀才には届かなかった。

だけど、この九州場所の泥の中で、俺の牙はさらに鋭く、狂暴に研ぎ澄まされた。


待ってろ、御剣。十両の土俵へ、すぐに上がってやる。

(第9話・了)

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