弟子の成長(親方視点)
「……チッ。やっぱりそこまで持っていかれるか」
向正面の審判席の後方、通路の隅で見守っていた荒磯は、顔をしかめて小さく舌を鳴らした。
視線の先、土俵際では、愛弟子の轟が西筆頭・御剣の正確無比な突っ張りに防戦一方となり、じりじりと徳俵へと追い詰められている。
館内を揺らす大歓声の中、荒磯の目には、土俵の上のすべてがスローモーションのように冷徹に映っていた。
御剣の相撲には、一ミリの無駄もない。
轟の突進の威力を左のおっつけ一枚で殺し、浮いた懐へ針の穴を通すように突きを乱打している。名門部屋の英才教育と、あの男が孤独に積み重ねてきた気の遠くなるような反復練習の結晶。それが、あの完璧な形だ。
それに比べて、うちのザンバラ髪はどうだ。
喉を押され、顎を跳ね上げられ、体勢は完全に崩れている。不格好極まりない。
だが――。
「そこからだろ、轟。お前が綺麗に負けてたまるかよ」
荒磯は首にかけたバスタオルを無意識のうちに固く握りしめていた。
あの初日の夜、宿舎で、砂の味に怯えて手元を縮こまらせていた若造にかけた言葉。
――お前の武器は『不格好な飢え』だ。
土俵際、御剣の鋭い「引き技」が炸裂した。
轟の巨体が、前のめりにガクリと崩れる。誰もが『勝負あった』と息を呑んだ、その瞬間だった。
(――残した!?)
荒磯の目が、カッと見開かれた。
轟は崩れ落ちる寸前、這うようにして右足を一歩、狂暴に踏み出していた。信じられない執念の足腰。そのまま死に物狂いで突き出した両手が、御剣の黒いまわしを鷲掴みにする。
初めて、御剣の顔から余裕が消え失せた。
「行けッ!!」
荒磯は思わず、声に出して叫んでいた。
轟は崩れた体勢のまま、自分の132キロの肉体すべてを投げ打つようにして、頭から御剣の胸へとぶつかりにいった。不格好で、泥臭くて、だけど理屈をすべて吹き飛ばすような、飢えた獣の体当たり。
「うおおおおお!」
轟の咆哮とともに、二人の怪物の巨体が、もつれ合うようにして同時に土俵の外へと崩れ落ちた。
ドササササッ!!!
赤茶けた砂が激しく舞い散る。
すかさず審判の親方衆が立ち上がり、土俵へと集まっていく。物言いだ。
荒磯は息を詰めたまま、土俵上の合議をじっと見つめた。
土俵の下、砂まみれになって呼吸を荒げる二人の若者。御剣は完璧な自分の相撲を泥塗りにされた事実に唇を噛み締め、轟はただ、己の手のひらを凝視している。
やがて、主審の親方がマイクを握った。
『ただいまの協議について説明いたします。東の力士の押しに、西の力士が応じ、両者同時に土俵の外へ飛び出しましたが、東の力士の足が、わずかに先に土俵の外に出ておりました。よって、軍配通り、御剣の勝ちといたします』
「勝負あり、寄り倒し、御剣の勝ち!」
その瞬間、御剣の「6戦全勝」と、来場所の十両昇進が確定した。
「……ハッ、甘かねえな、幕下の壁は」
荒磯は小さく息を吐き、頭をワシワシとかきむしった。
結果は2敗目。轟の今場所は4勝2敗となった。
御剣の完璧な技術と、番付の重みに、あと一歩のところで跳ね返された形だ。
だが、薄暗い花道の奥へと戻っていく轟の、赤く腫れ上がった手のひらと、その眼光を見た瞬間、荒磯の口元に自然とニヤリとした笑みが浮かんだ。
負けた男の顔じゃない。
口の中に広がる砂の味を噛み締めながら、次はあの天才の首を確実に引きずり下ろしてやるという、狂暴な飢えに満ちた、極上のツラをしていた。
荒磯はバスタオルを肩にかけ直すと、不敵な笑みを浮かべたまま歩き出した。
愛弟子の未来への確かな手応えを胸に、荒磯は支度部屋へと向かった。
(九州場所編第8話・了)




