怪物たちの呼吸
運命の六戦目。博多の冷たい海風を遮る福岡国際センターの内部は、幕下の取組とは思えない、異様な熱気と歓声に包まれていた。
「――轟、そろそろだ。行くぞ」
若鳥さんの硬い声に促され、俺は支度部屋の雑魚寝スペースから立ち上がった。
部屋のいちばん奥、明け荷の並ぶ特等席では、すでに御剣がまわしを締め終え、冷徹な眼光を一点に定めて精神を研ぎ澄ましていた。
お互いに一言も交わさない。だが、すれ違う瞬間の空気の気圧が、肌を刺すように痛かった。
薄暗い花道の奥。
前の二番の激しい肉体衝突を見つめながら、俺は自分の大きな手のひらを開閉させた。初日の黒星、口の中に広がった砂の味、そして親方の「お前の武器は不格好な飢えだ」という言葉。そのすべてが、今の俺の血肉となっている。
やがて直前の取組が始まると同時に、俺と御剣は、まばゆい照明が照らす館内へと足を踏み入れた。
満員の観客席から、地鳴りのようなざわめきが湧き起こる。
『おお……! 轟と御剣だ!』
『今場所の幕下で一番熱い一番だな』
東と西の控え席。
俺は土俵下の座布団に深く腰を下ろし、目の前の取組を凝視しながら、呼吸を整えた。数メートル先、西の控えの座布団には御剣が座っている。一切の無駄がないその佇まいは、まるで氷でできた彫刻のようだった。
やがて前の相撲に勝負がつき、行司の呼び出しが館内に響き渡った。
『東――、轟――。西――、御剣――』
その声を背中に浴びながら、俺はゆっくりと立ち上がり、土俵の砂を踏みしめて上がった。
溜席のいつもの場所に、法被を着た琴音ちゃんが立っているのが見えた。彼女の黒髪に挿された桜色のかんざしが、館内の光を浴びて激しく揺れている。その瞳は、祈るような、だけど俺の勝利を100%信じる強い光に満ちていた。
俺たちはそのまま仕切り線へと歩み寄る。
関取のような華やかな塩撒きも、のんびりとした制限時間の猶予もない。幕下の土俵は、ただ純粋な殺気だけがぶつかり合う場所だ。
一歩、近づくたびに、御剣の全身から放たれる圧倒的なエリートの殺気が、俺の肌を焦がすように押し寄せてくる。
名門のなかで一切群れず、空き枠の不運すら黙らせるために狂ったような努力を積み重ねてきた天才。その歩みの重さが、御剣の引き締まった肉体そのものだった。
対する俺は、ザンバラ髪すら結えない、泥水をすすって這い上がってきた不格好な獣だ。
一回目の仕切り。
二回目の仕切り。
お互いに呼吸を合わせ、無言のまま仕切りを重ねていく。館内の歓声が、潮が引くように静まり返っていく。誰もが、この二人の怪物の激突から一瞬たりとも目を離すまいと、息を呑んでいた。
行司の「時間です」の合図とともに、俺たちは最後の仕切りへと入る。
俺は仕切り線に腰を下ろし、拳を固く砂へと下ろした。
御剣もまた、寸分の狂いもない構えで、冷徹な瞳を真っ直ぐに俺へと向けてくる。
心臓の鼓動が、耳の奥で爆音のように鳴り響く。
行司が、ゆっくりと軍配を返した。
世界から音が消え、ただ二人の怪物の呼吸だけが、土俵の上で激しく交錯する。
――はっけよい!
「のこった!」
ドンッ!!!
福岡国際センターの天井を揺らすような、凄まじい肉体の衝突音が炸裂した。
俺は全神経を集中させ、頭から御剣の胸へと飛び込んだ。初日に岩風にいなされた恐怖をねじ伏せ、足の裏で土俵の砂を噛むようにして、132キロの突進を爆発させる。
だが、御剣は微動だにしなかった。
(――固え……!)
まるで大関・雷電の胸を叩いたときのような、圧倒的な壁の感覚。御剣は俺の狂暴な突進を、寸分の狂いもない鋭い左のおっつけで受け止め、俺の力を完全に上方へと逃がしていた。
間髪入れず、御剣の細く引き締まった右腕が、俺の懐へと滑り込んでくる。前まわしを狙う鋭い動き。
「させるかよ!」
俺は本能的に右肘を畳み、御剣の差し手を強引に抱え込んだ。まわしを引かれ、得意の形に持ち込まれたら一瞬で終わる。俺は死に物狂いで、鉄板のような手のひらを御剣の顎の下へと突っ張った。
激しい手の突っ張り合い。
ベベベンッ!と、乾いた肉体打撃音が土俵の上で乱打される。
御剣の突きは、針の穴を通すように正確で速い。俺の鎖骨、喉元、みぞおちへと容赦なく鋭い突きが叩き込まれ、一歩、また一歩と俺の足が土俵の際へと後退させられる。
館内は、割れんばかりの大歓声で沸き立っていた。
『御剣の猛攻! 轟、堪え切れるか!?』
視界がぐにゃりと歪む。
足元には、すでに徳俵が迫っていた――。
(九州場所編第7話・了)




