十三日目
十一月場所の中盤戦、福岡国際センターの空気は日を追うごとに緊迫感を増していく。
初日の黒星という冷たい砂の味を知った轟は、親方の言葉を胸に、飢えた獣のように白星を貪り始めていた。不格好でいい、泥臭くていい。その覚悟が、彼の突き押しをさらに重く、狂暴なものへと変えていた。
二戦目の白星を皮切りに、三戦目、四戦目、五戦目――。
這いつくばりながらも前に出続ける轟の相撲は、幕下のベテランたちを次々と圧倒し、気がつけば初日の負けが嘘のような「4勝1敗」という好成績で終盤戦へと突入していた。
だが、その遥か先、同じ幕下の頂点で、一分の隙もなく立ち塞がっている男がいた。
幕下西筆頭・御剣。
初日から一度の足踏みもなく、すべての相手を完璧な技術と冷徹なスピードで土俵の外へと仕留めてきた。5戦全勝。来場所の十両昇進を我が物とするまで、あと二つの白星。その圧倒的な背中は、会場中の、そして相撲界全体の視線を集めていた。
そして、運命の十三日目。
日本相撲協会の審判部が組んだ幕下の割(取組編成)が発表された瞬間、国技館の記者室、そして両者の部屋に激震が走った。
六戦目――。
「……組まれたぞ」
十三日目の朝、お寺の宿舎のちゃんこ場で、満吉がスポーツ新聞の切り抜きを握りしめながら、かすれた声で呟いた。
湯気を立てる大鍋の前で大根を切っていた琴音ちゃんの手が、ピタリと止まる。彼女の黒髪に挿された桜色のかんざしが、緊張を映すようにわずかに揺れた。
新聞の白黒の紙面には、明日の取組表がハッキリと印字されていた。
『東・轟 ―― 西・御剣』
「西筆頭の御剣と、この段階で当たるか……」
ちゃんこの味見をしていた若鳥さんが、腕を組んで低く唸った。
大相撲のルールとして、幕下は場所中に7回しか土俵に上がらない。通常、全勝の筆頭力士には同じ全勝の力士が当てられる。だが、今場所の幕下上位は混戦を極め、御剣のスピードについてこられる全勝力士が他にいなくなっていた。
結果として、初日に一敗したものの、その後圧倒的な相撲で4連勝して上がってきた「最速の怪物」である轟に、白羽の矢が立ったのだ。
御剣にとっては、全勝優勝と十両昇進を確実にするための、最大の関門。
轟にとっては、初日の敗北から這い上がり、ついに同世代の頂点に立つ男の首に手をかける、最大の好機。
「轟……」
琴音ちゃんが、心配と、それ以上の熱を孕んだ瞳で、食堂の隅で黙々と鉄砲を踏んでいる俺を見つめていた。
「……分かってる」
俺は柱から手を離し、自分の大きく腫れ上がった手のひらを見つめた。
皮が剥け、博多の赤茶けた砂がめり込んで黒ずんでいる。初日に岩風にいなされ、口の中に広がったあの鉄の味。あの痛みが、今の俺の身体を支えている。
綺麗に勝とうなんて、ハナから思っちゃいない。
その日の午後。
控室モニターの画面には、土俵の様子が映し出されていた。
画面の向こう、まばゆい照明が照らす土俵の上に、御剣の姿があった。五戦目の取組だ。
仕切り線に立つ御剣の体躯は、無駄な脂肪が一切なく、まるで研ぎ澄まされた日本刀のようだった。相手は十両経験のある実力派のベテラン。立ち合い、相手が低く鋭く当たった。
だが、御剣の反応は一瞬だった。
相手の突進を、寸分の狂いもない左のおっつけで殺すと、そのまま流れるような動作で右を差し、一歩も退かずに寄り切った。
「勝負あり、御剣の勝ち!」
スピーカーから、館内の地鳴りのような拍手が響いてくる。
これで5戦全勝。十両昇進という「関取」への切符に、あの男は王手をかけた。
画面の向こうで、土俵を下り、冷徹な仮面のまま花道へと歩いていく御剣の姿を、俺は瞬きもせずに睨み据えていた。
直接言葉を交わしたわけじゃない。
だが、テレビの画面越しですら、あの男の放つ圧倒的なエリートの矜持と、こちらを迎え撃つための冷たい殺気が、ビリビリと伝わってくる気がした。
名門の中で群れず、己の不運すら黙らせるだけの努力を積んできた、完璧な秀才。
小さなプレハブの部屋で、砂を噛みながら牙を研いできた、不格好な飢えた獣。
胸の奥の心臓が、ドクン、ドクンと激しく脈打つ。
恐怖じゃない。全身の血が沸騰するような、凄まじい歓喜だった。
明日、六戦目。
この博多の土俵で、俺たちのどちらかが、確実に泥を舐めることになる。
(九州場所編第6話・了)




