不格好な牙
初日の黒星から、博多の夜はひたすら重かった。
宿舎に戻ってからも、口の中に残る砂の味が消えない。ちゃんこの味もろくに分からず、ただ義務のように喉へ流し込んだ。大部屋の隅、布団に寝転がっても、目を閉じれば昼間の岩風の鋭いいなしと、宙に浮いた自分の身体の感覚が何度もフラッシュバックする。
翌朝、お寺の境内に建てられたプレハブの稽古場。
俺はいつもより早くまわしを締め、一人で鉄砲柱に向かっていた。自分の突進が通用しなかった恐怖から、いつもより手元が縮こまるような、嫌な感覚が身体にまとわりついている。
「――おい、轟」
背後から声をかけたのは、普段はあまり吸わないタバコの煙を吐き出しながら稽古場に入ってきた荒磯親方だった。
俺は動きを止め、深く一礼する。親方は土俵の縁にどっかりと腰を下ろし、俺の腫れ上がった手のひらをじっと見つめた。
「初日、綺麗に転がされたな」
「……すみません。立ち合いを、完全に読まれていました」
悔しさで奥歯を噛み締める俺に、親方は鼻で笑うように言った。
「当たり前だ、バカ野郎。相手は何年も幕下で飯を食ってる化け物だぞ。お前みたいな、真っ直ぐにしか来ねえザンバラ髪の突進なんて、手のひらの上で転がすくらい造作もねえよ」
親方はタバコを携帯灰皿に押し付けると、鋭い眼光で俺を睨み据えた。
「お前、大関の背中を見たからって、急に『綺麗な相撲』を取ろうとしてんじゃねえだろうな。相手の動きを見て、いなされないように腰を引くか? 立ち合いのタイミングをずらすか?」
ギクリとした。まさに昨晩、俺が頭の中でぐるぐると考えていたことだった。
「勘違いするな。お前の相撲は、そんな器用なもんじゃねえ。型にハマった綺麗なエリートの相撲なら、名門部屋の御剣が何百分の一ミリの狂いもなくやってる。お前がそれを真似してどうする」
親方は立ち上がり、俺の胸をバチンと力任せに叩いた。
「いなされたら、泥を這いつくばってでももう一度前に出ろ。喉を押されたら、顎が砕けても押し返せ。お前の武器は、世界のどこにも居場所がなくて、砂を噛んででも上へ行くしかなかった、その『不格好な飢え』だろうが」
胸の奥の、冷え固まっていた塊が、熱い火を上げて弾けた気がした。
そうだ。俺には、御剣のような完璧な技術も、エリートとしての歩みもない。
ただ、泥水をすすりながら、低く当たって前に出る。通用しなかったら、通用するまで泥臭く押し続けるだけだ。
「……はい」
「分かったら、鉄砲百遍だ。今場所、ここから全部ひっくり返してこい」
「しゃす!」
俺の声に、いつもの、いや、これまで以上の力が漲っていた。
その日の午後、二日目の土俵。
俺は二番前に支度部屋を出て、一番前にはすでに土俵下の控え席に腰を下ろしていた。
館内の照明が、俺の短いザンバラ髪を焦がすように照らす。
溜席のいつもの場所に立つ琴音ちゃんが、心配そうにこちらを見つめているのが分かった。俺は小さく息を吐き、彼女の視線に、ただ真っ直ぐな眼光だけで応えた。もう迷いはない。
『東――、轟――。西――、若潮――』
呼び出しの声とともに、俺は土俵へ上がった。
相手の若潮は、突き押しで鳴らす若手の成長株。初日の俺の敗戦を見て、ここぞとばかりに鋭い視線を送ってくる。
塩を撒き、仕切り線に拳を下ろす。
行司の軍配が返った。
――はっけよい!
「のこった!」
ドンッ!!!
初日を遥かに凌ぐ、凄まじい衝撃音が館内に轟いた。
俺は頭から、若潮の胸へと突っ込んだ。
若潮が初日の岩風と同じように、一瞬体を引いて俺の威力をかわそうとする。俺の身体が、一瞬だけ前のめりに崩れかけた。
(――関係ねえ!)
親方の言葉が脳裏をよぎる。
体勢が崩れようが、いなされようが、足の裏で泥を這うように砂を掴み、狂ったように両手を突き出した。不格好でいい。泥臭くていい。
「おおおおお!」
若潮の顎の下へ、俺の鉄板のような手のひらが執念で引っかかった。そこから、身体全体の重さを乗せて、一歩、狂暴に踏み込む。
「押し出し、轟の勝ち!」
気がついたときには、若潮の巨体が土俵の下へと叩きつけられていた。
『勝負あり! 轟、激しい突進から、体勢を崩されながらも泥臭く押し切りました! 昨日の敗戦を払拭する、凄まじい執念の相撲です!』
館内が、割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。
土俵を降りる俺の足元は、一歩もブレていなかった。
口の中に広がるのは、もう苦い砂の味じゃない。自分の力で掴み取った、熱い白星の味だ。
通路に戻る途中、溜席の琴音ちゃんが、胸の前で小さく手を合わせて、本当に安心したように涙ぐみながら微笑んでいた。彼女のかんざしが、誇らしげに揺れている。
ここからだ。
支度部屋の奥で、今日も完璧な相撲で白星を重ねている御剣。
あの男の背中を捕まえるまで、俺は泥をすすりながらでも、勝ち続ける。
(九州場所編第5話・了)




