鉄の味
博多の十一月は、海からの風が冷たい。
だが、会場である福岡国際センターの内部は、朝から詰めかけた観客の熱気と、立ち上るちゃんこの匂いで、肌が粟立つほどの熱を帯びていた。
花道の奥、薄暗い幕下以下用の支度部屋。
関取のような個人のスペースなどない、大勢の力士がひしめき合う雑魚寝の大部屋の片隅で、俺は自分で黒いまわしをきつく締め直していた。
「おい、轟。まわしが緩んでねえか」
通りかかった若鳥さんが、俺の背中をパチンと叩いた。
「……大丈夫です」
低く応え、脱いだジャージを自分で小さく畳んで荷物カゴに押し込む。
幕下に上がった今場所からは、取組の時間が午後になる。三段目の頃よりも観客の数が目に見えて増えた館内は、拍手の地鳴りのような響きが違っていた。
ふと、支度部屋のいちばん奥、明け荷の並ぶ壁際に目が向く。
そこに、男が一人、壁に背を預けて座っていた。
幕下西筆頭・御剣。
この後、幕下の結び近くで登場する今場所の主役だ。彼は目を閉じ、周囲の喧騒を一切寄せ付けない冷徹なオーラを放ちながら、己の出番を静かに待っていた。
一切の無駄を省いたその佇まいを見るだけで、彼がどれだけ完璧に仕上げてきているかが分かった。あの男は、もう関取(十両)の座しか見据えていない。
「――轟、そろそろだ。行くぞ」
若鳥さんに促され、俺は御剣の冷たい気配を背中に感じながら支度部屋を出た。
薄暗い花道の奥で、前の二番の動向をじっと待つ。
やがて一番前の取組が始まると同時に、俺は花道を抜けて、まばゆい照明が照らす館内へと足を踏み入れた。
満員の観客席。その向こう、土俵のすぐ下、溜席のわずかな隙間に、法被を着た琴音ちゃんの姿が見えた。彼女の髪に挿された桜色のかんざしが、館内の光を受けて静かに揺れている。
彼女もまた、祈るような目で俺を見つめていた。
俺は土俵下の控えの席に腰を下ろし、目の前で繰り広げられる激しいぶつかり合いを凝視しながら、呼吸を整えた。体中が、じりじりと熱くなっていく。
やがて前の相撲に勝負がつき、行司の呼び出しが館内に響き渡った。
『東――、轟――。西――、岩風――』
その声を背中に浴びながら、俺はゆっくりと立ち上がり、土俵の砂を踏みしめて上がった。
相手の岩風は、幕下に長く在位している、体重150キロを超えるベテランの押し力士だ。その身体は長年の戦いで無数の傷が刻まれ、岩のようにゴツゴツとしている。
塩を掴み、土俵に撒く。
仕切り線に腰を下ろすと、岩風のぎろりとした濁った眼光が、俺のザンバラ髪を捉えた。
声にはならぬ圧力が、土俵の砂を通じて伝わってくる。
これが幕下。十両という「プロ」の境界線の一歩手前で、何年も泥をすすりながら生き残ってきた怪物たちの巣窟だ。
行司が軍配を返した。
呼吸を合わせる。拳を砂に下ろした瞬間、世界が静まり返った。
――はっけよい。
ドンッ!!
激しい衝突音が館内に響いた。
俺はいつも通り、低く、頭から相手の胸へとぶつかりにいった。夏の出稽古で雷電から学んだ、重心を低く保つ踏み込み。
だが、その瞬間、俺の身体がわずかに宙に浮いた。
(――あ)
岩風は、俺の低い立ち合いを完全に読んでいた。
ぶつかる直前、一瞬だけ身を引くようにして俺の威力を殺し、下から強烈な「いなし」を打ってきたのだ。
これまで対戦してきた三段目までの相手なら、俺の突進の威力だけで押し切れた。だが、幕下のベテランは、その突進の力をそのまま利用して、俺の重心を奪いにきた。
視界がぐにゃりと歪む。
足の裏が、土俵の砂を離れた。
「おおおおお!」
館内が大きくどよめく。
俺は必死に手を突き出し、岩風の胸を押し返そうとした。だが、崩れた体勢のまま放った突きは空を切り、逆に岩風の分厚い手のひらが、俺の喉元へと容赦なく突き刺さった。
喉を強烈に押し上げられ、息が詰まる。
そのまま、一歩、後ろへと足が退がった。
「そこまで!」
行司の声が遠くで聞こえた。
気がついたときには、俺の足は、土俵の外の冷たい砂を踏みしめていた。
軍配は、西の岩風へ。
『勝負あり! 岩風、見事な変化からの押し出し! 三場所連続全勝の超新星・轟、なんと幕下のデビュー戦で、生涯初の黒星です!』
館内が、驚きとどよめきで騒然となる。
俺は呆然としたまま、土俵を見上げた。
勝った岩風は、ふんと鼻を鳴らし、一瞥もくれずに花道へと戻っていく。
土俵を降りる俺の足元は、わずかに震えていた。
口の中に、砂の味が広がっている。鉄のように苦く、血の混じったざらついた砂の味。
これが、負けるということか。
通路に戻る途中、溜席から俺を見つめる琴音ちゃんと一瞬だけ目が合った。彼女の瞳には、驚きと、それ以上に俺を心配するような痛烈な光が宿っていた。
花道の奥の薄暗闇。
俺は自分のジャージを乱暴に掴み、壁に手をついて、激しく上下する肩を抑えた。
全勝街道は、ここで途絶えた。
御剣が遥か先を完璧に走り抜ける中で、俺は幕下の初日に、人生で初めての地獄の味を知った。
(九州場所編第4話・了)




