嵐の前の静かさ
「――まだまだ! 腰が浮いてるぞ、轟!」
金剛山さんの野太い怒声が、突貫工事で作られたプレハブの稽古場に響き渡る。
十一月。境内の木々に止まるとんぼを赤く染め上げながら、博多の夕暮れは急速に冷え込んでいく。だが、この狭い稽古場の中だけは、男たちの体熱とびん付け油の熱気で、夏の盛りのように沸き立っていた。
「……しゃす!」
俺は荒い息を吐きながら、もう一度、赤茶けた土俵の砂を踏みしめた。
132キロの身体。夏の出稽古で大関・雷電にコテンパンにされながら、身体に染み込ませた「重心を奪う低い踏み込み」。それを、今場所から戦うことになる『幕下』のスピードに対応させるため、来る日も来る日も、金剛山さんの胸を借りて突き押しを繰り返している。
稽古場の隅、鉄砲柱のすぐ脇で、新弟子の佐藤が膝を抱えて小さくなっていた。
まだまわしの締め方すらおぼつかない坊主頭の少年は、130キロを超える巨体同士が、骨の軋むような音を立ててぶつかり合う光景に、完全に圧倒されて声を失っている。
「次、三番続けていくぞ」
俺が仕切り線に拳を下ろすと、佐藤の身体がびくりと震えた。
怖がらせるつもりはないが、手加減をして見せる余裕なんて、今の俺には一ミリもない。
ドン、と鈍い衝撃が走る。
金剛山さんの分厚い胸に頭から飛び込み、泥臭く、ひたすら愚直に手のひらで突っ張る。一度や二度ではビクともしない先輩の身体を、足の裏で九州の固い砂を噛むようにして、一歩、また一歩と前へ押し出していく。
「よし、そこまで!」
親方の声がかかった瞬間、金剛山さんの巨体が土俵の外へと一歩、よろめいた。
「……ふぅ。轟、お前、先場所よりまた突きが重くなってんな。手が鉄板みたいだわ」
金剛山さんが、肩で息をしながらニヤリと笑った。
「ありがとうございます」
深く一礼して土俵を降りると、全身が汗と泥でドロドロだった。
すかさず、佐藤がカチコチに緊張した手つきで、大きなバスタオルを差し出してくる。
「あ、あの、轟さん、お疲れ様です……!」
「おう。佐藤、ちゃんこの仕込み、もう始まるから準備しとけよ」
「はい!」
佐藤は弾かれたように勝手口へと走っていった。去年の俺も、あんなふうに必死に動けていただろうか。不器用な後輩の背中を見送りながら、俺は自分の手のひらを見つめた。赤く腫れ上がり、砂がめり込んだ皮膚。だけど、確かに強く、固くなっている。
勝手口のほうからは、すでに大きな鉄鍋から出汁のいい匂いが漂い始めていた。
「轟、お茶、ここに置いておくね」
カゴに水差しとコップを入れた琴音ちゃんが、稽古場の外からそっと声をかけてくれた。
彼女の顔には、地元の市場を走り回って食材を買い集めてきた疲れが少しだけ見えたが、その瞳は相変わらず凛としている。結び目のない黒髪に挿された桜色のかんざしが、夕暮れの薄暗い稽古場の中で、静かに光を反射していた。
「琴音ちゃん、買い出し、終わった?」
「うん。博多の八百屋さん、みんな元気で圧倒されちゃった。でもね、ちゃんと良い大根、安く仕入れられたよ」
クスリと笑う彼女の言葉に、俺の強張っていた身体が少しだけ緩む。
俺が土俵の上で幕下と戦うための身体を作るように、彼女もまた、この見知らぬ博多の街で、部屋を支えるための自分の戦いを進めているのだ。
「いよいよ来週から場所が始まるね。……御剣さんも、もう博多に入ってるのかな」
琴音ちゃんがぽつりと言ったその名前に、俺の胸の奥がピリッと引き締まった。
名門部屋のなかで努力を積み重ねている天才。
同じ幕下という地獄の土俵で、あの男は今、どんな相撲を仕上げてきているのだろうか。
「……さあな。でも、誰が相手でもやることは一つだ」
俺は冷たい麦茶を一気に飲み干し、まだザンバラ髪にも満たない短い髪を、手ぐしで無造作にかき上げた。
空には、いつの間にかたくさんのとんぼが、静かに、だけど燃えるような赤さで舞っている。
この博多の街のどこかで、怪物たちも同じ空を見上げているはずだ。
嵐の前の静けさを孕みながら、十一月の場所初めの日が、刻一刻と近づいていた。
(九州場所編第3話・了)




