博多の秋茜
ゴトン、ゴトンと、新幹線の床から伝わる重い振動が、ようやく博多駅のホームで止まった。
東京から数時間。大きな衣装ケースや、何十人分もの敷布団を積み込んだトラックは一足先に出発しているが、俺たち力士や裏方陣が博多の街に降り立つと、いよいよ九州場所が始まるのだという実感がじわりと湧いてくる。
駅を出ると、東京よりも心なしか湿気を含んだ、だけど冷たい秋の風が頬を撫でた。
「おい、轟、ボサッとするな。荷物運ぶぞ」
満吉に急かされ、俺は自分の大きなボストンバッグを肩に担ぎ直した。
荒磯部屋が九州場所の期間中に間借りするのは、博多の市街地から少し離れた古いお寺の敷地内にある、普段は使われていない集会所だ。
プレハブの稽古場が突貫工事で建てられ、本堂の裏手に男たちが雑魚寝する大部屋が作られる。びん付け油の甘い匂いが、お寺の線香の匂いと混ざり合って、独特の地方場所の空気を生み出していた。
「――おい、全員集まれ。九州場所の前に、新入りを紹介しておく」
荷解きの手を止めて大部屋に集まると、親方の後ろに、ボストンバッグを一つだけ足元に置いた若い少年が、ガチガチに緊張した面持ちで立っていた。
髪はまだ坊主頭。高校を中退して、この秋に退路を断って荒磯部屋の門を叩いたという、佐藤という少年だった。大勢が押し寄せる春の入門ラッシュとは違う。この肌寒い季節に、たった一人で部屋の門を叩く小僧には、それなりの覚悟と、どこか居場所をなくしたような影がある。
「今日から入った、佐藤だ。轟、お前も今場所から幕下だ。自分の稽古もしなきゃならんが、この時期に入ってきた佐藤に、ちゃんこの手順やタオルの畳み方を教えてやってくれ」
「……しゃす」
俺は低く応え、自分より一回り小さな佐藤の坊主頭をちらりと見た。
去年の今頃、何も分からずに土俵の砂を噛んでいた自分自身の姿が、一瞬だけ重なる。
三段目までは部屋の一番下として雑用をこなす毎日だったが、この新弟子が入ってきたこと、そして自分が幕下に上がったことで、部屋での立ち位置が変わる。これからは自分の相撲に集中する時間ができると同時に、先輩として、背中で強さを示さなければならない。
手首につけた腕時計をそっと外し、大事に荷物カゴの奥へ仕舞う。
「轟、ちょっといい?」
勝手口の近くで、九州場所の買い出しメモを片手にした琴音ちゃんに声をかけられた。
慣れない博多の土地で、地元の市場や八百屋と交渉し、130キロを超える男たちの胃袋を満たすための食材を集める――それもまた、新米マネージャーである彼女の、地方場所での戦いだ。
「今場所から、轟は雑用が減る分、もっとたくさん稽古できるね」
琴音ちゃんは、荷物ケースの上に置かれた俺の黒いまわしを見つめながら、静かに微笑んだ。その黒髪には、旅の疲れも見せず、あの桜色のかんざしが真っ直ぐに挿されている。
「……うん。でも、やることは変わらない」
俺は自分の大きな手のひらを見つめた。
「ただ、四股を踏んで、全力でぶつかるだけだ」
「そっか。……信じてるね」
彼女が小さく頷いたその時、稽古場の方から、「ドン!」という肉体の衝突音が響いてきた。
すでに金剛山さんや若鳥さんが、九州の固い土俵で激しいぶつかり稽古を始めている。
雑用から解放されるということ。それはつまり、「言い訳ができない領域」に足を踏み入れたということだった。
ここから先は、純粋な実力だけの地獄だ。
あの強豪部屋の片隅で、自分の運すら黙らせるために狂ったような努力を続けている御剣も、今頃、博多のどこかの宿舎で、同じようにまわしを締めて土俵を見つめているに違いない。
俺は稽古場へと続く薄暗い通路を歩き出した。
裸足の足の裏に、九州の土の、冷たくて固い感触がじりじりと伝わってくる。
(九州場所編第2話・了)




