怪物の取材(記者視点)
相撲専門誌の記者になって二十年、数々の天才や怪物を見てきた。だが、今年の秋ほど、ペンの走りが狂う季節はない。
十月。九州場所への荷造りが進む、ある名門の強豪部屋の応接間。
私の正面に座る男からは、部屋の喧騒を一切寄せ付けない、冷徹なまでの殺気が漂っていた。
幕下西筆頭・御剣。
一度の負け越しもなく最速で幕下最上位まで駆け上がりながら、先場所、5勝2敗という文句なしの成績を残しても、関取の空き枠の都合という不運だけで十両昇進を見送られた男だ。
「……番付の編成は、上が決めることです。自分に足りなかったのは、空き枠の運をも黙らせるだけの圧倒的な勝ち星、それだけです」
御剣の声は低く、淡々としていた。
言い訳を一切口にせず、全ての責任を己の力不足に帰するその態度に、彼の狂おしいほどのストイックさが滲んでいた。
この名門部屋には何十人もの力士がひしめき、稽古が終われば和気藹々とした空気が流れる。だが、御剣だけは違った。彼は一切群れない。ちゃんこの時間も、他の力士たちが談笑する中で一人、黙々と次の稽古のシミュレーションをしている。
『あいつは努力の桁が違う。真面目すぎて、うちの部屋じゃ少し浮いてるくらいさ』
以前、この部屋の古参の親方がこぼしていた言葉を思い出す。周囲が天才と称賛するその裏で、彼は誰よりも孤独に、己の肉体を削るような努力を課し続けているのだ。
「次の九州場所、狙うは当然、幕下優勝での関取昇進ですね」
私の問いに、御剣はただ一言、「ただ目の前の取組に全力を尽くすだけです」とだけ返した。その圧倒的なエリートの矜持と、あと一歩で影に呑まれた者の執念に、私の背筋がゾクリと震えた。
――だが。
その足で、私はもう一人の「最速の怪物」を取材するため、東京の東の果てにある、小さな荒磯部屋へと向かった。
名門部屋とは対照的な、錆びついたトタン屋根のプレハブ。
びん付け油と男たちの濃厚な汗の臭いが充満する応接間で、私はその男と対面した。
三場所連続全勝優勝、轟。
132キロの巨体。窮屈な開襟シャツを着て、パイプ椅子に小さくなって座っている。まだ髪を結うにも足りないザンバラ髪。
一見すると、どこにでもいる不器用な大男だ。口数も少なく、優勝について聞いても「たまたま、です」と答えるだけ。
しかし、私が「次はいよいよ幕下です。このまま勝ち進めば、いつかは先場所の千秋楽の結びで、悲願の初優勝を果たした大関・雷電関のような、あの雲の上の頂点が見えてくるかもしれませんね」と、半ば冗談めかして水を向けた瞬間だった。
轟の眼光が、一瞬で変わった。
雷電、という名前を耳にした瞬間だ。
それは、御剣の持つ冷徹なエリートの殺気とは全く違う、もっと泥臭く、底無しの深淵から這い上がってきた獣のような、凄まじい「飢え」だった。その一瞬の眼光の重さに、私は思わず息を呑み、走らせていたペンを止めてしまった。
まさか、このザンバラ髪の小僧が、本気であの大関の背中を見据えているというのか。
「こいつはまだ、砂の味しか知らねえ小僧ですよ。雷電関のような雲の上の人のことを語るにゃあ、まだ100年早い。なぁ、轟」
「……はい」
割って入ったのは、熱いお茶を盆に乗せて入ってきた荒磯親方だった。親方は私の気圧された空気を察したように笑い、轟の肩を叩いた。
轟は再び、いつもの静かな大男に戻った。
私のノートには、彼が放ったあの異質なオーラがしっかりと刻まれていた。
取材を終え、玄関へ向かうと、荷造りの手を止めた同い年の新米マネージャー、琴音ちゃんがそっと頭を下げた。
彼女の黒髪には、今場所の裏方を戦い抜いた象徴である、桜色のかんざしが誇らしげに揺れている。彼女の瞳もまた、ただ部屋を支える身内としてではなく、この「ザンバラ髪の怪物」と共に地獄へ殴り込むプロの裏方としての、確かな覚悟に満ちていた。
一人は、名門のなかで孤高の努力を続け、不運に牙を研ぐ御剣。
一人は、小さな部屋から泥をすすり、世界の頂点を見据えて突き進む轟。
十一月、博多。
この二人の怪物が、ついに同じ「幕下」に揃う。
大相撲の歴史が動く予感を胸に、私は冷え始めた秋風の中、荒磯部屋を後にした。
(九州場所編第1話・了)




