約束のパフェ
九月場所の千秋楽から三日が過ぎた。
本場所が終わると、力士たちには数日間の休みが与えられる。といっても、地方場所のように実家に帰れるわけではない。東京の荒磯部屋居残りの面々は、朝寝坊が許されるくらいで、基本的にはのんびりと身体を休めていた。
「轟、お前今場所の優勝賞金、何に使うんだ?」
ちゃんこ場の片付けをしながら、満吉が羨ましそうに聞いてきた。三段目の優勝賞金は30万円。十両(関取)の給与に比べればささやかなものだが、幕下以下の若手にとっては大金だ。
「……まだ、決めてないです」
俺は皿を拭きながら応えた。金剛山さんの腕時計はもう左腕に戻っているが、その横にある文字盤をチラリと見る。
「何だよ、味気ない奴だな。若鳥さんは『美味い寿司食いに行く』って、さっき勝ち越し祝いの小遣い握りしめて出かけてったぞ」
満吉がケラケラと笑う。
片付けを終え、俺は自室(といっても相部屋だが、今はみんな出かけて誰もいない)で私服に着替えた。
普段の浴衣ではなく、大きめのTシャツにチノパン。132キロの身体に合う服は、基本的には通販の大きいサイズ専門店で買ったものだ。
部屋の玄関に向かうと、ちょうど勝手口から私服姿の琴音ちゃんが出てくるところだった。
白いブラウスに、ロングスカート。いつも髪を留めている桜色のかんざしは、今日は大事にバッグに仕舞われているようだった。
「あ、轟。お待たせ」
琴音ちゃんが嬉しそうに微笑む。
今日は場所前から約束していた、琴音ちゃんの「マネージャー初本場所お疲れ様会」を兼ねた、二人きりの外出だった。
「どこ、行きますか」
「うーん、せっかく秋だし、美味しい秋のフルーツのパフェが食べたいな。轟、甘いものいける?」
「はい。ごっつぁんです」
「ふふ、プライベートの時は『ごっつぁんです』禁止!」
東京の街を、少し距離を空けて二人で歩く。
132キロのザンバラ髪の男と、小柄な女の子の組み合わせは、街ゆく人々の視線を少しだけ集めた。だけど、琴音ちゃんは気にする風でもなく、今場所の裏方仕事の大変さや、他のお部屋のマネージャーさんから教えてもらったちゃんこの隠し味の話などを、楽しそうにずっと話してくれた。
駅近くの、少し落ち着いた雰囲気の喫茶店に入る。
運ばれてきたのは、栗や葡萄がこれでもかと盛られた、大きなマロンパフェだった。
「わあ……! すごい、美味しそう!」
琴音ちゃんが目を輝かせる。
俺の前に置かれたのは、お店で一番大きい「ジャンボパフェ」だったが、132キロの俺の手にかかると、普通のミニパフェのように小さく見えた。
「いただきます」
スプーンで栗のクリームをすくい、口に運ぶ。
濃厚な甘さが、十五日間、極限まで張り詰めていた神経を、じんわりとほぐしていくようだった。
「美味しい?」
「……はい。すごく」
俺が短く応えると、琴音ちゃんは満足そうに微笑んで、自分のパフェを小さめのスプーンで上品に食べ始めた。
しばらく二人で黙々とパフェを食べていると、琴音ちゃんがふと、スプーンを止めて俺の顔をじっと見つめてきた。
「ねえ、轟。最近、雰囲気変わったよね」
「……雰囲気、ですか?」
「うん。入門したばっかりの頃の轟って、なんていうか、いつもぼーっとしてて、強いのに本人はそのことにあんまり興味なさそうな感じだったでしょ。ご飯食べてる時が一番楽しそうで」
琴音ちゃんはクスッと笑い、それから少し真面目な顔になった。
「でも、出稽古から帰ってきた頃から、目つきが変わった。土俵に上がってない時でも、何かをずっと見据えてるみたいな顔をしてる時があるの。今日だって、パフェ食べながらも、ちょっと考え事してたでしょ」
図星だった。雷電関の壁の感触、そして御剣の眼光。気づけば、休みの日でもそんなことを考えている自分がいる。
「……すみません。気づかなかったです」
「謝ることないよ。むしろ、いいことだと思う」
琴音ちゃんは真っ直ぐに俺を見て、優しく続けた。
「轟が本気で相撲に向き合ってるのが、ちゃんと伝わってくるから。だから私も、もっと頑張ろうって思えるの」
「轟……三段目全勝優勝、本当におめでとう」
ふと、琴音ちゃんが食べる手を止め、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「私、土俵の下で轟の相撲を見てるとき、本当に心臓が止まりそうだった。でも、轟が勝って、部屋のみんなが喜んでるのを見て……私、この部屋のマネージャーになって、本当によかったなって思ったの」
彼女の瞳には、あの浅草の夜と同じ、真っ直ぐな覚悟があった。
「琴音ちゃんがいてくれたから、勝てました」
俺は嘘偽りのない気持ちを口にした。毎日のちゃんこ、冷たい水、そして土俵の下で見守ってくれる桜色のかんざし。それがどれだけ俺の背中を押してくれたか。
「……うん。ありがとう」
琴音ちゃんは少し照れたように視線を落とし、それからバッグから、あの桜色のかんざしをそっと取り出した。
「これ、次の九州場所でも、その次も、ずっとつけて裏方の仕事頑張るね。だから……轟も、ずっと勝ち進んでね」
「はい。必ず、幕下も全勝で抜けます」
パフェの甘さの中に、確かな約束がもう一度、結ばれた。
――その頃、荒磯部屋の稽古場では、親方が一人、誰もいない土俵を見つめながら熱いお茶をすすっていた。
手元にあるのは、十一月場所の新しい番付の予想編成紙だ。
「轟の奴、次は幕下の上位近くまで跳ね上がるか……。そこから先は、地獄だぞ」
親方の呟きが、誰もいない稽古場に静かに溶けていった。
光の当たる東京の喫茶店で、若い二人が未来を誓い合う裏で、次の戦いの足音は、確実に近づいていた。
(九月場所編第9話・了)
力士はプライベートであっても、外出時は基本的に髷に浴衣が推奨されてるらしいです。
でも、デートの時まで浴衣なことはないよね、、?




