大関が見た深淵(雷電視点)
皆が口を揃えて、次の横綱は雷電だと言う。
生まれ持った体躯と、他を寄せ付けない圧倒的な力。周囲が勝手に作り上げたその虚像の真ん中で、俺はただ、淡々と土俵に上がり、目の前の男を転がし続けてきた。そこに感慨などない。勝って当然。それが大関・雷電という男に課せられた義務だと思っていた。
だが、今場所は違った。
十三日目に手痛い1敗を喫し、背中にのしかかるプレッシャーは、これまでの比ではなかった。
千秋楽、結びの一番。
13勝1敗。勝てば悲願の初優勝。そして、悲願の最高位――『横綱』への道が拓ける。
両国国技館を揺らす、地鳴りのような大歓声。
俺はいつも通り、無表情のまま仕切り線へと進み、深く腰を下ろした。対峙する横綱の眼光には、意地でも俺の初優勝を阻むという執念が渦巻いている。
だが、不思議と俺の心は静水のように澄んでいた。
拳を砂に下ろす。
呼吸が、ピタリと合った。
「――はっけよい!」
行司の声と同時に、横綱の猛烈な突っ張りが俺の胸を叩いた。
凄まじい衝撃。一瞬、身体が俵の近くまで後退する。館内がひっくり返るほどの歓声が吊り屋根に跳ね返る中、俺は強引に腰を落とし、その猛攻を真っ向から受け止めた。
泥をすすり、這いつくばってでも、この白星だけは譲らない。
俺の太い両腕が、横綱の脇の下へと深く滑り込んだ。ハズ押し。下半身の力をすべて腕へと伝え、一歩、力強く前へ踏み込む。
確かな手応えとともに、横綱の巨体が土俵の外へと弾け飛んだ。
『押し出し、押し出して――雷電の勝ち!! 大関・雷電、14勝1敗! 悲願の初優勝です!!』
頭上から、無数の座布団が舞い落ちてくる。
割れんばかりの拍手の中、俺は表情を変えず、淡々と勝ち名乗りを受けた。だが、激しく上下する肩と、全身から噴き出す汗だけは隠せなかった。
ようやく、頂点へと手をかけた。
次の十一月場所は、横綱昇進をかけた『綱獲り』の場所になる。誰もが俺を、これからの相撲界を統べる絶対王者として称賛するだろう。
だが、花道を引き上げる途中、ふと館内の電光掲示板が目に留まった。
そこには、俺の取組の少し前に、三場所連続の全勝優勝を飾ったという一人のザンバラ髪の力士の名前があった。
『三段目優勝――轟』
その名前を見た瞬間、俺の脳裏に、あの蒸し暑い出稽古の日と、プレハブの稽古場のびん付け油の匂いが、鮮烈に蘇ってきた。
ただの出稽古のつもりだった。三段目の小僧に胸を出してやるだけの、退屈な時間のはずだった。
だが、あのザンバラ髪のガキの最後の一発。俺の身体をわずかに揺らし、砂まみれになりながら俺を睨みつけてきた、あのギラギラとした飢えた眼光。
誰もが俺を怪物と呼び、恐れ、あるいは諦める。
だが、あのガキだけは、本気で俺を叩き潰そうと向かってきた。あの眼光の冷たい輝きを、俺は今でも、この初優勝の歓声の中でさえ、はっきりと覚えている。
「雷電、おめでとう! よくやった!」
親方衆や関係者が、次々と俺の背中を叩いていく。
俺は誰にも気づかれないように、小さく口元を緩めた。
(轟、か)
いいだろう。早く上がってこい。
俺がこれから横綱となり、相撲界の絶対的な頂点として君臨してやる。
その高い場所で、お前がその『槍』を携えて、俺の正面に立ち塞がる日を、俺は確かに待っている。
大関・雷電。
その胸の奥にある、誰にも見せない本当の「飢え」が、静かに、しかし激しく共鳴していた。
(九月場所編第8話・了)
横綱になるためには、大関の地位で「2場所連続優勝」または「それに準ずる好成績」を収め、日本相撲協会の横綱審議委員会の推薦と理事会の承認を得る必要があります。
また、強さだけでなく、それを支える高い品格も求められます。




